~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
恋 人 た ち
 
2018/06/29
横 笛 (三)
一番先に触れた横笛像については、いくつかの言い伝えがある。一つはこの寺の尼にあてて横笛がさまzまの悩みをうったえた手紙を使って、尼が、後に彼女の像を作ったという説、彼女がかつて滝口入道とやりとりした恋文で自分の像を作ったという説、あるいはその恋文で彼女の死後、尼が彼女の像を作ったという説・・・・。
が、はたしてどれが真実かと問い詰める必要はないだろう。横笛の出家とか法華寺入りそのものが、伝説の霧に包まれているのだから・・・・。『平家物語』はさまざまの寺と結びついて語り伝えられているが、この横笛伝説もその一つなのであろう。
この横笛の話は明治になってから高山樗牛ちょぎゅうが、「滝口入道」として書いたことから大変有名になった。これは樗牛が懸賞小説に応募した処女作で、筆者が二十三歳の青年だとわかるとさらに評判になり、一躍彼は文壇の花形になった。ここで滝口入道自身が二十三歳の青年ということになっているのも、彼の心情を反映してのことであろうか。
『平家物語』の時代から明治の「滝口入道」まで、この横笛は、最もよく人に知られたヒロインの一人である。が、今これを読み返してみると、私は何か物足りない気がしてならない。横笛の描き方はあまりにも類型的である ── というより、極言すれば、全く人間としての個性が描かれていないのだ。
いや、これは彼女に限ったことではない。祇王や小督について見たように、『平家物語』に登場する恋人たちは、多かれ少なかれ、そういう思いを抱かせる。人に愛され、やはて人に別れて出家する・・・・それでおしまいなのだ。どんなふうに彼女たちが人を愛したかというような個性的な行動はひとつもやっていない。『源氏物語』に登場する女性の多くがきわめて個性的な恋を経験するのに、彼女たちは全く受け身で没個性的なのだ。
これは一つには彼女たちがあくまでも脇役で、この大きな『平家物語』全体のヒロインではないからかも知れない。彼女たちはみな、本筋から派生した物語の主人公であって、極端な言い方をすれば、彼女たちが登場しなくても、『平家』は、けっこう成立つのである。
とはいうものの、それは決して彼女たちが全く必要のない存在だということではない。いや、『平家物語』の大筋のほかに、脇道としてこうしたロマンスは絶対に必要だった ──『平家』が語られていく間に、聞き手がこれを必要としたからこそあらわれたのだ、と私は思う。おそらくこれらのロマンスを盲法師は力を込めて語り、民衆は身を乗り出して聞き、彼女らの哀れな運命に涙を流したことであろう。
だから ── その故にこそ、彼女たちは必然的に類型的存在になったのだ。大衆の求めるヒロインは、あくまでも美しく、哀れでなければならない。それでなければ共感が得られないのである。
「哀れよのう。あの若さで ──」
聞く人にそう思わせる必要があった。大衆の好みというものは、いつの時代でもその程度のものなのである。ここに語り物としての『平家』の限界がある。その意味では、読む文学の『源氏』と同じ水準で比較はできないのである。
が、それでいながら、『平家』は『源氏物語』の中に、恋人像を求めている。恋といえば作者の頭に浮かぶのが先ず王朝絵巻であることは、すでに「小督」の所で指摘しておいた。すでに時代は動いていたし、変動期にふさわしいようなたくましい人物はたくさん出て来ているのに、『平家』の作者が恋人像として頭に浮かべるのは、王朝的な女性なのだ。女性であっても現実にその枠をはみ出した個性的な人間のいたことは、ほかの史料から裏づけ得るのに、『平家』はそうした新しい女性はつかまえていない。そのあたりに『平家』の作者の眼がどこに向けられたかを探る手がかりがあるともいえるのだが、ともあれ、『源氏』とは全く別の土俵にありながら、あこがれの女性は依然として王朝型の哀しき美人だったところが、『平家物語』の恋人像のおもしろいところであろう。

その上、彼女たちは、揃いも揃って、みな仏道に帰依きえしている。が、じつをいうと、彼女たちだけでなく、『平家物語』では作中で好意を持たれている人物は、すべて最後に仏道に帰依することになっている。その典型は重盛で、その仏心のゆえに彼は平家が滅亡の危機にさらされる前にこの世を去った。『平家』の作者は、恋人たちにも、それと同じ運命を与えた。好意を持つがゆえに、最も理想的な形で彼女らの生涯を終わらせているのである。そしてこれがかえって私たちにマンネリな印象を与えるのだが、この事をここでもう一度考えなおしてみたい。滝口入道の出家が全く架空のことではなかった、ということでもわかるとおり、当時は一般の人々にも出家の願いが強かったのだ。
それは裏返せば、当時の社会に対する、底知れぬ不信感であり絶望感である。だからこそ十代の滝口は、すべての欲望をなげうって、仏に心のよりどころをみつけずにはおられなかったのだ。危機感、虚脱感は、あるいは現代以上のものであったに違いない。その意味で恋人たちの出家についても、作者はきわめて鮮烈な思いをもって書いていることを理解しなくてはならないだろう。
彼女たちは弱々しく泣き悲しみ、世の中をはかなんで出家したのではないのである。
人間的な愛欲をスプリング・ボードにして、永遠の精神的平和の世界へと跳躍したのだ。そして不安な乱世に対決するにはそれしかないのだ ── と作者は言いたかったのではないだろうか。