これを聞いた横笛は激しいショックを受けた。
「私を捨てたとか何とかいうならまだいい。出家なさった恨めしさよ。いや出家なさるにしても、なんで私に知らせてくれなかったのか」
生きながら別世界に行ってしまった恋人から、恋の裏切り以上の打撃を受けたのである。彼女はいても立ってもいられなくなる。
── いくらあの方が心を堅く持って愛欲を断ち、私に会わぬ決心をされたといっても、どうしても一度尋ね出して恨みごとを言ってやらなくては。
横笛はすぐさま滝口を探しに出かける。が、往生院という名はわかっても、いざ探してみるとなかなか見つからない。あそこか、ここか、と横笛は馴れぬ足をひきずって、たずねあぐむ。と、荒れた僧房から念誦の声が聞こえて来た。耳をすませば、まさしく滝口その人の声である。はやる胸をおさえて、横笛は供の女房に言わせた。
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わらはこそこれまで尋たづねまひりたれ。さまのかはりてをはすらんをも、今一度みたてまつらばや。
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(私、横笛がたずねてまいりました。出家されたお姿をもう一度拝見させていただきたいものでございます) |
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さすがに滝口入道は動揺した。障子の隙間すきまからそっとのぞくと、まさしく横笛が立っている。それもたずねあぐねて疲れ切っている様子が、いかにもあわれであった。いかに道心堅固な者でも、ふっと心を動かされ、声をかけたくなるような彼女の姿だったが、はっと気をとりなおした滝口は、心を奮い起こして、人づてにこう言ってやる。
「そういう人間はおりません。お間違いでしょう」
ここで逢ったら、またもとの恋の道へ引き戻されてしまう、と思ったのだ。
目の前にいる恋人に会うことを拒まれた横笛の傷手は大きかった。我と我が目で、恋人が別世界に行ってしまったことを確かめてしまったのだから。彼女が力も尽きて、涙をおさえて帰った後、滝口入道は、嵯峨さがの幽栖ゆうせい地も捨てる決心をする。
── 一度は会わずに帰した。しかしまた二度、三度と来たら、自分の決心は崩れてしまうかも知れない。
滝口入道もまだ決して悟りの境地に到っているわけではない。彼自身も苦しいのだ。そして自信が持てないのだ。そこで彼は女人禁制の高野山に登る決心をする。落ち着いた先は清浄心院 ── これは高野山の蓮華谷れんげだににある寺である。そこで修行を続ける滝口入道の耳に、しばらくして一つの噂うわさが伝わって来た。
横笛も出家して仏道に入った、というのである。
── ああよかった。これであの人も、愛欲の苦しさから離れて、真の悟りの道に生きることが出来る。
このとき彼は、これまでの燃えるような恋の心とは違った、同じ悟りの道を歩む者への高度の同士愛とでもいったものを横笛に感じたに違いない。
『平家物語』はこの時二人の詠み交わした歌をあげている。 |
そるまでは うらみしかども あづさ弓 まことの道の 入いるるぞうれしき
滝口入道 |
(私はあなたが出家するまでは悲しんでいたが、あなたもまことの道に入ったと聞いて大変うれしい) |
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そるとても なにかうらみん あすさ弓 ひきとどむべき 心ならねば
横 笛 |
(出家したとて、何であなたをお恨み申し上げましょう。ひきとめることのできないあなたのお心なのですから) |
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歌の解釈は一応通例に従った。しかしもう一つつけ加えておくと、『平家物語』のある本には、この歌の作者が入違っているのである。『平家物語』には幾通りも本があり、内容や表現が大分違っているが、ここもその例であろう。私なりの考えを言えば、ここは作者を取り換えた方が、なお自然ではないかという気がする。その時は、歌の意味はこんなふうになる。 |
第一首目(横 笛) |
私も出家するまではあなたを恨みましたが、今は同じ仏道の道に入り、大変うれしく思っています。 |
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第二首目(滝口入道) |
あなたが出家したことを決して恨んではいません。第一私自身それを引き止める心境ではないのdすから。 |
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日本語は主語がはっきりしないので、こんなふうにどっちにでも解釈出来るのである。
さて、出家した横笛は法華寺に入った。ここは奈良時代以来の伝統のある尼寺である。まもなく横笛はこの世を去る。滝口入道は人の世のはかなさを身近に感じ、ますます修行に打ち込んだので、高野の聖ひじりとまでいわれる高僧になった。 |
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