〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/02 (木) 

念願の帰路
1839年二月十一日、やっと帰国の途につくことができた。修道院からパルマに向かう馬車に乗り込んだ。パルマに到着すると、またショパンのピアノをめぐってひと悶着起こった。結核患者の使ったピアノでは、それが最高のものであろうと誰も買おうとしないのだ。結局同情した銀行家が引き取ることになって、身を軽くした一行は、二月十三日、来た時と同じ蒸気船エレ・マヨルキンイに乗り込むことが出来た。しかし、100頭の豚が一緒で、そのうえショパンの様子から病名を察する船長は、乗船料金を二倍に吊り上げ、そのあげく船室もベッドも最低のものしか提供できないと言った。
バルセロナに着いても豚の上陸が先で、咳の発作と喀血に苦しむショパンのために、サンドは港に停泊中のフランスの軍艦 「メレアグル」 の船長に助けを求めた。小船に手紙を託し、窮状を訴えた。すぐに船長自らボートで迎えに来て、船医の診察を受けることが出来た。安心したショパンの病状はやがて落ち着き、予定通りバルセロナに一週間滞在して、マルセイユへ向かった。
シューマンへの献呈問題

1839年三月七日にショパンがマルセイユからフォンタナに宛てた手紙は、楽譜出版による収支やパリの部屋のことなど、長い間に気にしながらも郵便事情の悪さから滞ってしまったことをすべて解決しようというかのような勢いにあふれている。≪前奏曲集≫ についてプレイエルからもらうはずの1500フランの使い道、借金の返済、部屋代などへの分配を依頼し、さらに ≪ポロネーズ≫ や ≪バラード≫ の版権についてドイツ分を持っているプロブトスなどから3000フラン入るはずだから送ってほしいとある。帰るべき部屋についても手配を依頼し、マリア・ヴォジンスカヤの兄アントニに貸した金は戻ってこないのではと心配している。咳は出なくなったので、当時結核の治療だと考えられていた瀉血は必要ないと、マトゥシンスキに伝えてほしいともある。パリで一緒に暮らしていたマトゥシンスキは医者だが、その腕をショパンは信頼しなくなっていた。 「風の家」 で咳が出たのは急性気管支炎だとショパンは信じていたのだ。
数日後またフォンタナに手紙を書いている。プレイエルの支払いが思ったとおりでなかったようで、≪バラード≫ はシュレザンジェのほうに渡してくれてもいいとある。いずれにしても楽譜出版社との交渉には苛立たされることも多かったようで、シュレザンジェは自分のおかげでたいへんな儲けを出しているのに、けっして高く買おうとしないと文句を並べている。グジマワに 「ユダヤ人はユダヤ人」 と書いて、シュレザンジェは強欲だと訴えた。
ショパンは楽譜出版の仲立ちを頼んでいるフォンタナにまた手紙を出した。この三月末に書かれた手紙では、興味深い事実が明らかになっている。シューマンの献呈するのは ≪バラード≫ 第二番と ≪前奏曲集≫ どちらでもいいというのだ。
シューマンはショパンへの気持を高揚させて、1838年 ≪クライスレリアーナ≫ の献呈を決めた。シューマンはショパンが十七歳の時に作った ≪ラ・チ・ダレム・ラ・マーノによる変奏曲≫ に熱狂して以来、1836年に念願がかなってライプチッヒで会うことが出来、その思い出をこめて ≪クライスレリアーナ≫ を贈ることに決めたのだ。 そんなシューマンに対して、ショパンはそれほどの感慨をもつことはない。お礼に何か贈らなければならないといった儀礼的意味合いが強い献呈で、どうしてもこの曲でないと失礼になるのではというような謙虚さは感じられない。プレイエルがもし ≪バラード≫のほうがいいと言ったらそれをプレイレエルに献呈しようとある。楽譜出版に対するプレイエルの支払額に文句を言いながらも、献呈するとなると、シューマンよりもポレイエルを優先させようとしている。結局、プレイエルが ≪前奏曲集≫ を望んだために ≪バラード≫ はシューマンへと決まった。
この手紙の後、四月末にショパンは追悼ミサでオルガンを演奏することになった。友人の大声楽家ヌーリは病気を悲観して自殺したからだ。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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