〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/01 (水) 

バルデモサの修道院
十二月十五日には、かねてから手配しておいたカルトゥジオ会修道院の僧房に引っ越した。家具や家事に必要なものは幸いなことに、先住のスペイン人夫婦から300フランで譲り受けることが出来た。
島の北側にあるこの修道院へは、馬車でパルマから三時間かかる。最初の二時間はだらだらと登り、最後の一時間は狭くて急な坂道となる。そのような場所に建てられた修道院の目の前には美しい庭園が造られた谷が広がっていた。画家や詩人が夢見るものすべての美しさがここにあると、サンドは賞賛した。しかし、修道院に人影は少なかった。
1836年にスペイン政府が出した命令によって、スペイン国内の多くの修道院はとり壊されたり、そうでなくとも国家財産として没収されていたからだ。カルトゥジオ会修道院には薬売りや女中志願の女性などが住んでいるだけだった。
修道院の住民からも村人たちからも、ショパンたちはけっして歓迎されなかった。ミサにも出ない奇妙なカップル、そのうちの若い男性は青白い顔でとこどき咳込む、子供たちの一人は女の子なのにズボンをはいている、保守的で警戒心も宗教心も篤い村の人々の共感を得られると考えるほうが無理だった。
異教徒、ユダヤ人とあだ名まで付けられて、村人から物を買おうとすれば法外な値段で嫌がらせされる。しかたなくすがったフランス領事の好意で、ロバに乗せてパルマから食材を運ぶと、それをかすめ取られないように注意が必要となる。外を歩けば石が飛んで来る。ショパンの体のためにと、サンドがヤギの乳を手配すると、盗み飲みされる。酔っ払った村人が修道院に入り込んで来て、ショパンの具合が悪いというのに、僧房の扉を夜中というのにたたく。こういった不愉快なことが毎日のように起こった。
しかし、パリの生活では味わえないものに出会って、好奇心をあおられることも多かった。廃墟となった修道院には秘密めいた部屋があり、ショパンとサンド、そして子供たちはそこを覗き込んで想像の世界に入り込んだり、天井が崩れ落ちそうな回廊をめぐって、冒険気分に浸ることがあった。
繊細なショパン、たくましいサンド
このような日々は、生活力旺盛で適応力にあふれ好奇心のかたまりのようなサンドには、それほどの苦痛ではなかったようだ。しかし、ショパンにとっては日を重ねるに連れて耐え難いものとなっていった。十二月二十八日になって、ピアノがすでに一週間前にマヨルカの港に到着していたことがわかった。サンドは勇んで受け取りに出かけたが、関税の値引き交渉に三十間を要した。結局400フランを払って、やっとピアノはナルデモサの僧房に置かれることとなった。
僧房の丸天井にプレイエルのピアノが美しく響き渡った。だがショパンには、僧房の生活は惨めなものでしかなかった。修道院はどこもかしこも荒れ果てていて、丸天井は埃だらけ、作曲するための机は簡易ベッドの横にある薄汚れた机で、そこに鉛製の蝋燭立てがあるだけだ、このような環境で作曲する気になれるわけがないと、フォンタナに嘆きの手紙を出した。そうはいっても、翌1839年一月二十二日には ≪前奏曲集≫ を完成させパリに送り、≪バラード≫ ≪ポロネーズ≫ ≪スケルツオ≫ も間もなく送れるだろうと、フォンタナに報告している。
僧房にはパリで使っていたようなものが何もなかった。ベッドは清潔だとしてもベッド用布団はインド更紗のキルティングで絹製ではない。救いはパルマでやっと手に入れた高価なフランス製の羽毛で作られた枕だが、床は埃っぽいので長い麦わらで編まれたバレンシア地方のござを敷かねばならなかった。衣装ダンスすらない。しかたがないので、パリから持ってきた大型トランクを代用した。カーテンもない。だから持ち合わせのタータンチェックのショールを吊るしかなかった。
こんな環境ではショパンが友人への手紙に書いたように、髪にカールしたり、白い手袋を着ける必要などなかった。
生来楽天的なサンドも、食料を盗まれるといった日常生活への強い不満が重なるにつれ、とうとう村人を 「猿」 と呼んで鬱憤を晴らすようになった。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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