柏木の衛門の督は、今でもまだ太政大臣のお邸の東の対
に独身でお住まいです。思うところがあって、数年来、こういう暮らしをつづけていると、自分の心がけのせいとは言え、淋しく心細い折々もあります。けれども、自分はこれほど立派な家柄の出身で、器量、才覚もあり、どうして自分の希望が叶かな
わないことがあとうかと、うぬ惚れて慢心していたところ、あの日の夕方から、ひどく気持がふさぎ込みがちになりました。 「どんな機会にか、もう一度、たとえあの程度でもいいから、ほのかな垣間見のお姿でも見られないものだろうか。何をしようと人目につかない身分の者なら、ほんのちょっとしたことでも、手数のかからない方違かたたが
えや物忌ものい みなどにかこつけ、出歩くのも気軽だから、自然、何かと隙をねらってうまくお近づきする機会もあるだろうのに」 などと考えて、憂さを晴らす方法もなく、深窓の女三の宮に対して、どんな手段なら、こんなにも深くお慕いしていることだけでも、お知らせすることが出来ようかと、胸も痛み、気が滅入りますので、小侍従のもとに、例によって手紙をおやりになります。 「先日は、風に誘われて、そちらの院の御垣みかき
の内にも立ち入ることが出来ましたが、女三の宮は、どんなにかわたくしをこれまでにもましていっそうお蔑さげす
みになられたことでしょう。あの夕べから、気分も悩ましくなりまして、わけもなく今日一日を、ぼんやり物思いに耽ふけ
って虚むな しく暮しました」 などと書いて、 |
よそに見て
折らぬ嘆きは しげれども なごり恋しき 花の夕かで (遠くからそれとなく 美しい花を眺めるばかりで 折ることも出来ない嘆きは深いのに
その花の夕かげが 今もただ名残惜しくて) |
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とありますけれど、先日の蹴鞠の日の事情を知らない小侍従は、ただ世間一般のありふれた恋の物思いなのだろうと思っています。 女三の宮のお前に人影の少ない時でしたので、小侍従はお手紙を持ってきて、 「この方が、いつもこんなふうに、いつまでも忘れられないといって手紙をよこされますのが、うるさいことでございます。でもあまりお気の毒な御様子を見ているうちに、見るに見かねて同情するかもしれないと、自分ながら自分の心がわからなくなりまして」 と、笑いながら申し上げます。 「まあ、あなたはいやなことをいう人ね」 と、女三の宮は無邪気におっしゃって、小侍従のひろげた手紙を御覧になります。 <見ずもあらず身もせぬ人の恋しくは> と古歌が引いてあるところにお目をとめられ、あの思いもかけず御簾の裾が巻き上げられた時のことだと自然思い当たられるのでした。思わずお顔が赫あか
くなられ、源氏の院が、あれほど何かにつけていつも、 「夕霧の大将に見られないようになさいよ。あなたは幼い無邪気なところがおありのようだから、ついうっかりしていて、大将がお姿をお見かけするようなことがあるかも知れません」 と御注意なさっていたのを、お思い出しになります。夕霧の大将があの日のことを、こんなことがありましたと、源氏の院にお話しすれば、どんなにお叱りになるだろうと、人に見られてしまったことの重大さはお考えにならず、まず、源氏の院に叱られることを恐がっていらっしゃいます。そのお気持は、ほんとうに子供のような無邪気さなのです。
いつもよりも、女三の宮の御機嫌が悪くはかばかしいお返事もなさいません。小侍従はつまらなくて、無理にこれ以上申し上げることも出来ないので、人目を忍んでいつものように自分でお返事を書きます。 「先日は、そ知らぬ顔をしていらっしゃいましたのね。宮に対して分不相応なひどい方と、お許し出来ませんでしたのに、
『見ずもあらず』 とはどういう意味ですか。まあ、何だか色めかしいこと」 と、さらさらと走り書きにして、 |
いまさらに
色にな出い でそ 山桜 およばぬ枝に
心かけきと (今さらお顔の色にも お出しにならないで 手も届かない山桜の枝に 心をかけたなどと 無駄なことですもの) |
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「甲斐もないことですのに」 と書いてあります。 |