旗艦三笠の艦橋で、 ──
敵か。 という声があがったのは、午後一時十五分である。 たしかに、南西微西の方角に当って数隻の艦影が見えたのである。 が、すぐ敵ではないことが分かった。索敵に出ていた味方で、海軍戦術を最初にひらいた山屋他人
を艦長とする笠置以下の巡洋艦四隻 (第三戦隊) であった。旅順閉塞で知られた有馬良橘りょうきつ
を艦長とする音羽、それに千歳と新高である。彼らは東郷の戦列にいそぎ参加すべく高速で近づいて来た。 ほどなく西方の沖に、点々と艦影がうかびはじめた。艦橋はふたたび緊張したが、これも味方であった。 バルチクッ艦隊を誘導すべく接触をつづけていた片岡七郎の第三艦隊の主力第五戦隊である。旗艦厳島が見えた。鎮遠、松島、橋立とならんで艦影を大きくしてきた。さらに、二、三千トンのちっぽけな三等巡洋艦もあらわれた。第三艦隊の第六戦隊であった。 この日の早暁から敵にしつこく食い下がっていた和泉がいそぎあしで戻って来つつある。ほかに、須磨、千代田、秋津洲がつづいている。千代田の艦長は東伏見宮依仁よりひと
親王という皇族であった。 「第三艦隊のうしろからバルチック艦隊がつづいている」 と、三笠艦橋でたれかが言った。まだ敵の艦影が見えるまでにいたっていないが、第三艦隊が彼らを誘導していることは間断なく入っている入電によってよくわかっていた。 第三艦隊の任務は、この誘導のなかばで終わったというべきであった。彼らはいわば敵戦艦の主砲をくらえばひとたまりもない老朽艦と小艦こぶね
のあつまりで、主力決戦の役に立つような軍艦ではなかったから、誘導の役がすめば舞台を三笠以下の主力艦隊にゆずり、後方へ引き下がることになっていた。こういう役目のわりふりはすべて真之の構想によるものであり、それらはすべて予期以上にうまくいった。 日本海海戦における市民としての唯一の目撃者である沖ノ島の佐藤市五郎少年のことはすげに述べたが、市五郎はこの刻限、島の大きな木の上にのぼり、枝に腰をおろして海面を見わたしていた。 すでに八十翁になっている市五郎氏の談によると、 「そのうち、和泉ともう一隻の小さな巡洋艦が、島の根に押しつけられるようにして寄って来ました」 という。和泉たちが退避してきたのだろう。市五郎少年の視界にはまだ東郷の主力艦隊が見えなかった。それより先、西北の海面にバルチック艦隊が出現するのが見えたのである。 「二列になり、ちょうど碁石ごいし
を並べたようで、ああも整然と隊伍が組めるものだと思いました。あの大艦隊の偉容を見たおどろきは今も体じゅうに残っています」 |