旅順要塞に対する第三次総攻撃が行われたのは、十一月二十六日である。 その攻撃部署は、右縦隊の第一師団
(東京) には松樹山、中央縦隊の第九師団 (金沢) には二竜山、左縦隊の第十一師団
(善通寺) には東鶏冠山をそれぞれ受け持たせた。全くの正面攻撃である。 さらにこの攻撃に加えるに、一大決死隊の突撃が計画された。 のちに旅順の死闘の象徴的な存在として有名になる
「白襷隊 」 がこれである。 特攻隊員は、各師団から選抜されることになった。あわせて三千余人である。 「この特別隊を中村覚少将に率いさせる」 というのが、乃木・伊地知の最初からの案であった。兵だけを死なせるわけにはいかないという道義的な理由によるもので、そのために将官を指揮官とした。中村覚は、歩兵第二旅団長であった。 中村覚は、明治維新でもっとも冷遇された近江彦根藩の出身で、明治五年陸軍教導団に入り、同八年、陸軍少尉に任官した。彼は日清戦争中は侍従武官をつとめ、帝から愛された。 「中村が、白襷隊を指揮するのか」 と、この報告を受けたとき、帝はしばらく沈鬱な表情を保ったという。 中村は、西南戦争からの歴戦の持ち主で、西南戦争のとき、徴兵令が布
かれてほどもないころのいわゆる鎮台兵を率いてじつに苦戦した。当時、鎮台兵は百姓兵といわれ、薩摩の士族兵の斬り込みを受けると算を乱して逃げた。 ── 兵隊というものは、ともすれば逃げるものだ。 という頭が、中村の記憶から去らない。西南戦後、二十数年の訓練の結果、日本兵は往年の薩摩士族兵以上の強さになり、しかもこの間
、その精強の度合いを日清戦争でテストしたが、中村はこの日清戦争には従軍していない。彼のとっての弾雨の中に入ったのは、西南戦争以来のことであった。 中村は、歩兵第二旅団を率いて出征するに当り、青山練兵場で旅団の軍装検査を行ったあと、訓示している。 「退却の文字は、本戦役間、これを抹殺すべし」 というものであった。中村の声は陸軍でも有名なほどに美声で、練兵場の隅々まで聞こえると誇張されたほどのものであった。彼はことさらに
「退却の文字を抹殺すべし」 と言ったのは、西南戦争に従軍した若い頃のにがい思い出があったからであろう。 この中村少将に率いられた 「退却なし」 という三千百余人白襷隊が、旅順要塞の砲火を浴び、一挙に千五百人が血煙を上げて死傷するにいたる。
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