〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/08 (木) 

列 強 (十九)

── 極東を制覇せよ。
というのはロシアの大官たちの合言葉のようになっているくせに、
「この当時のロシアの政治家の通弊として極東について何も知らない。たとえばシナの国情とか、シナ、朝鮮および日本などの地理的情勢やらそれら諸国の相互関係などについて、高官たちを見わたしたところ、いっこうに知っていそうにない」
と、ウィッテは言う。
外務大臣ですら、例外でない。
「もし前外相ロバノフ侯爵に向かって、満州とはどういうところか、奉天ほうてん吉林きつりん はどこのいあるかなどを質問したところで、彼は中学二年生程度の回答しか出来ないであろう」
そのくせ、ロシアの極東における出先機関は決して鈍重ではない。虎のような攻撃心と機敏さを持っており、日清戦争が勃発した時も、ウラジオストックにいたロシア軍団は、どういう目的か、にわかに戦闘態勢を整え、国境を越えて満州の吉林にまで進出し、そこで進駐しつつ事態を観望した。この目的の真意は、なぞである。
ともあれ、首都のペテルブルグの高官たちはその程度の知識しか。極東についてはない。ひとり、ウィッテのみが持っている。ウィッテが大蔵大臣の身で、皇帝の極東問題についての諮問しもん に答えつづけてきた理由の一つは、そこにある。
ウィッテの極東感覚を知る上で、彼が日清戦争直後に閣議で言ったことは重要である。
「シナは、今の状態に長く冷帯させなければならない」
今の状態、というのは 「ねむれる状態」 のままとどめておくということであり、シナにとってみれば恐るべき発言である。
「停滞させるためには、いろいろの手段が必要だが、一つはシナの側に立ってその領土と独立を保全してやらねばならない。その独立をおびやかすようなことは少しでもしてはならない」
ウィッテの考えは、シナを家畜にすることである。今あせって肉にしてはならない。ロシアだけが出来るならよいが、他国もそれをやる。自然分け前の肉は少なくなるし、またそのことに反抗してシナ人の民衆が目覚めてしまえばそれまでである。それよりも懐柔してロシアにとってよき家畜にすることだ、という。ウィッテはロシア人ではあったが、まるで英国人のような感覚を持っていた。
さらにウィッテは、日本を無用に刺激する事には反対だったが、日本が日清戦争で遼東半島を得たことについては他のロシア高官と同じ立場を取った。つまり日本に遼東半島を放棄させ、シナに返させよ、という意見である。それによってロシアはシナに恩を売っておく。
「もし日本が返還を渋るなら、日本のある地点を砲撃するくらいのことは、やむを得ない」
と、閣議で主張した。
ウィッテの極東に対する政略は、右のようである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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