兵学校に入るまで真之は、海軍というものはどういうものか知らなかった。 入校後、さまざまなことを知った。 「大英帝国の権威はその海軍によって維持されている」 という言葉をこの築地の兵学校の生徒の胸に刻みつけたのは、英国から来た傭教師アーチボールド・ルシアス・ダグラス少佐であった。 明治政府はそれまでの旧幕式や諸藩式など雑多な考え方が雑居していた海軍教育というものを英国式に統一するため、英国政府に交渉し、教官団の派遣を乞うた。彼らは明治六年七月に来日した。その団長が右のだぐらす少佐であり、少佐のもとに各科の士官が五人、下士官が十二人、水兵が十六人いた。 ダグラスはのち大将に進んだ人で、この当時の英国海軍の中でも屈指の人材とされていた。彼は明治八年に他の英人教官と交替して日本を去ったから真之は知らない。 が、その言葉は代々の兵学校生徒たちに受け継がれた。ダグラスはさらに言う。 「この極東の島国の地理的環境ははなはだ英国に酷似している」 さらに、 「日本帝国の栄光と威厳は、一個の海軍士官にかかっている。言葉をひるがえせば、一個の海軍士官の志操、精神、そして能力が、すなわち日本のそれにかかっている」 とも言った。 英国はその国土こそ小さいが、その強大な艦隊と商船団によって世界を支配した。日本は英国を範とせよ、とダグラスは言ったのだろうが、この当時、日本の軍事体制は必ずしもそうではない。 陸軍中心であった。 その陸軍も、鎮台主義であった。国土の要所々々に兵隊を置き、国内の治安のみを考えて創設され、錬成されていた。陸軍の演習もすべてその想定のもとに行われ、片鱗も海外への軍隊派遣ということは考えられていない。自然、海軍の効用も限定されていた。
明治海軍は、艦船六隻から出発した。 慶応四 (明治元) 年三月、大阪の天保山沖でこの国初の観艦式が行われたが、この時参加した艦船は右のように六隻で、その合計トン数は二四五〇トンでしかなく、祝賀のために参加したフランス軍艦ジューブレッキス号が山のように日本戦艦を圧した。 その後、国土防衛の必要から海軍を盛んにする論議がやかましくなり、艦隊はしだいに整備されて来た。砲艦や海防艦程度のものは横須賀
、石川島、小野浜 (神戸) などで国産されるようになった。他の大艦は、外国からtyねに最高給のものを購入した。 真之は軍艦
「浪速なにわ 」 (3650トン)
を見学した時、 「これが世界でもっとも性能のいい軍艦だ」 と聞かされた。浪速は高千穂 (同) とともに英国の造船所で造られたが、その真技術による諸性能がいいというのであとで本家の英国海軍が採用したほどだという。 |