〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/24 (火) 一 つ の 岡 (三)

部隊を、岡の下に待たせ、わが子を迎えに、そこへ登って行った熊谷直実は、
「おお」
とすぐ大勢の中に、小次郎直家の顔を見出し、そばへ、歩み寄っていた。
「小次郎。もう いのか。都まで馬上、大事はばいのか」
「不覚な を負い、重ね重ね、ご心配をかけました。口惜しゅうてなりませぬ」
「なんの、戦場の武運、ぜひもないわ。それよりも、体は」
「まだ、痛みますが、歩めぬほどではありません。まして馬上ならば」
「では、ひとまず、父とともに還るがよいが、麻鳥どのは、どこにおれるるか。一言、お礼を申したいが」
「あれ、彼方あなた におられまする」
直家が指さす所を見ると、そこにも、一群の負傷者が、世話になった人を囲んで、別れを惜しみ合っていた。
その真ん中に立って、何かと、この後の養生やら明るい冗談を交わしていたのが麻鳥であった。そしてふと、たれか後ろから呼ぶ声に、振り返って、
「おう、これは」
と、熊谷の姿を見かけ、互いに、歩み寄っていた。
「堀川でも、お目にはかかっておったが、またしても、子息小次郎が、ここの戦場にて、いかいお世話に相成りました由」
「なんの、凡医のこと、すぐれたお手当てもできませぬ」
「二度まで、手傷を負い、二度まで、同じお人も治療を賜るとは」
「まことに、御縁の深いことです」
宿世すくせ の御縁なれば、どうぞして、三度目には、かかることでない、なんぞよろこばしい場所で、お目にかかりたいものと存ずる」
「今日は、晴れの御凱旋ごがいせん 、およろこびの日ではないのですか」
「人は知らず、この熊谷には、なんの功もおざらぬ。── わが子一人を傷つけ、人の子一人を討ち取ったのみ。・・・・はははは、武者とは、つまらぬことに、有頂天になったり、悲涙を流したりするものでおざるよ。お笑いくだされ、お笑いくだされい」
そう言いながら、一人の郎党とともに、自分も子の小次郎の覚束おぼつか なげな歩に、その手を肩へたす け取って、岡の道を降りて行く彼の眼もとは、心なしかほんとに泣きゆがんでいるように見えた。
しかし、この岡を去って、凱旋の列に加わって行く他の武者たちには、みじんも、そんな悩みはない。たとえ、まだ傷が癒えず、片足を引きずったり、頭を包帯ほうたい でくるんでいる者でも、
「おさらば、おさらば」
と、後ろの岡へ、何度も手を振りながら、喜々として、みな、別れて行った。
そして、帰りたいにも、帰る当てのない平家の兵や、源氏の兵でも、重傷で歩行も出来ない者だけが、あとの残った。
── が、今日の凱旋軍を見るだけでもと、彼らもみな、岡の端までいざり出して、ながめていた。
たった今、山かげを縫って、生田川の西へ見えて来たのは、蒲殿かばどの 以下の、梶原、稲毛、千葉、曾我、結城ゆうき などの諸軍らしく、また、海沿い道を、おなじ方へ、えんえんと行く別な一軍こそ、義経とその麾下きか の将士に違いない。
岡の下を去って、それを追っかけて行く熊谷の一小隊も、はや、小さくしか見えなかった。
やがて、すべての旗と兵馬は、生田川を東へ渡り、昼霞ひるがすみ の果てへ、次第に薄れて行った。──
さだめし、都では、人出の山が道を埋めてそれを見物することだろう。また、院をはじめ、公卿百官も、にわかに、こび びをもって彼らを迎え、将には恩賞があり、兵には、ねぎらいの酒が待ち、上下をあげて、ちまたは、戦捷せんしょう の賀にいろど られるにちがいない。
と、思うものか。
いや、たれもが、それらのことを、想像せずにはいられまい。
しょんぼり、あその岡に、取り残された無数の眼は、それぞれ、深刻だった。彼らの上には、なんの光もない。春の雲が一すじ、ふんわり、流れていただけだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ