〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/17 (火)  かんの たい (一)
「── あれへ、泳ぎ着いて救われん」
と、敦盛あつもり が目ざしていた味方の船は、つい近くのように、初めは見えた。
が、呼べば答えそうな船影も、いつまでも、おなじ距離にあった。
敦盛は、あせった。
すでに駒は、遠浅の極みを離れ、その四肢しし は全力で、真っ青な海潮の下であがいていた。
けれど、海の広さは圧倒を感じる。馬は、しぶきに耳を伏せて恐怖きょうふ した。敦盛も強い潮の香に、呼吸がつまった。
「ちっ、ちっ、ち」
こう、くちびる を鳴らせば、いつもはままになる駒が、ほとんど、手綱に従わない。甲冑かっちゅう を乗せた重みにも苦しむものか、ややもすれば、沖波に押し返される ──。
特にこの辺の浜は、明石海峡の西から東へ大きくめぐ っている早潮の路でもあった。
馬のいななきは、おりおり、絶望的な訴えに聞こえる。敦盛は、そのたびに、
「南無三、ここでおぼれては」
と、鞍腰を逃がして、馬の背の重みを助けた。
内兜うちかぶと れ、鎧の下にまで、海水がとお ってゆく。二月きさらぎ 初めの海である。五体はこごえ、手綱の手も、知覚を失いかけていた。
ふと、都にある恋人の白い容顔かんばせ が、くっきりと、胸にうか んでくる。 「あの君に笑われるような最期さいご は遂げたくない ──」 とするにわかな心支度と、死の恐怖とが、一波いっぱ のしぶき、一波のひらめきごとに、心の中で渦巻いた。
すると。── どこかで遠い声がした。 「おおおういっ」 と、長く尾を引いて呼ぶときのあの声である。それは沖の海鳴りにも似、彼が後ろにして来た岸の松風のようでもあった。
「はて?」
耳を疑うらしく、敦盛は、兜の眉廂まびさし を沖へあげていた。
彼が、目ざしていた船は、ここに漂う味方の一騎を知らずにいるのか、かえりみている余裕もないのか、かえって、沖遠く過ぎかけていた。
そして、また、幾艘ともない船団のくずれが、大輪田や、駒ヶ林方面から、おなじ水路を通っていたが、いずれも、屋島へ屋島へ、と心もそらに逃げ落ちて行くみじめな敗軍の残影ざんえい でないものはない。
敦盛は、じんとまぶた を熱くして、
「あわれ、無残な味方の敗けようかな。平家も今日までの末路か」
と、馬を泳がす必死な力も失いかけた。
それとともに、さっきから 「おうういっおううい」 としきりに聞こえて来る声も、味方の船からでなかったことがようやく分かった。
「どこで、たれの呼ぶ声」
と、浪間の姿は、しばし、迷うらしかった。
鍬形くわがた の兜の星が、キラと、陸地の方を振り向いた。
そして初めて、声の主を、その眸は知ったらしく、まばゆげなかげ内兜うちかぶと の顔半分にえがいて、じっと、こなたを見すましている。
海面は、一瞬の間も、おなじ色でなかった。朝雲の歩みのままに、その光燿こうよう色相しきそう を刻々にへん じていた。
── 見れば、岸を後ろに、遠浅の果てまで迫って来た一騎の武者が、鉄のような勇姿を、波光の中に、黒々とにじ ませていた。
片手に、軍扇ぐんせん をかざし、敦盛の姿へ向かって、執拗しつよう にまで、
「おおおいっ。返せ。返させ給え」
と、野太のぶと いサビ声を、ふりしぼっていたのであった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next