「──
あれへ、泳ぎ着いて救われん」 と、敦盛
が目ざしていた味方の船は、つい近くのように、初めは見えた。 が、呼べば答えそうな船影も、いつまでも、おなじ距離にあった。 敦盛は、あせった。 すでに駒は、遠浅の極みを離れ、その四肢しし
は全力で、真っ青な海潮の下であがいていた。 けれど、海の広さは圧倒を感じる。馬は、しぶきに耳を伏せて恐怖きょうふ
した。敦盛も強い潮の香に、呼吸がつまった。 「ちっ、ちっ、ち」 こう、唇くちびる
を鳴らせば、いつもはままになる駒が、ほとんど、手綱に従わない。甲冑かっちゅう
を乗せた重みにも苦しむものか、ややもすれば、沖波に押し返される ──。 特にこの辺の浜は、明石海峡の西から東へ大きく旋めぐ
っている早潮の路でもあった。 馬のいななきは、おりおり、絶望的な訴えに聞こえる。敦盛は、そのたびに、 「南無三、ここでおぼれては」 と、鞍腰を逃がして、馬の背の重みを助けた。 内兜うちかぶと
も濡ぬ れ、鎧の下にまで、海水が透とお
ってゆく。二月きさらぎ 初めの海である。五体はこごえ、手綱の手も、知覚を失いかけていた。 ふと、都にある恋人の白い容顔かんばせ
が、くっきりと、胸に泛うか んでくる。
「あの君に笑われるような最期さいご
は遂げたくない ──」 とするにわかな心支度と、死の恐怖とが、一波いっぱ
のしぶき、一波のひらめきごとに、心の中で渦巻いた。 すると。── どこかで遠い声がした。 「おおおういっ」 と、長く尾を引いて呼ぶときのあの声である。それは沖の海鳴りにも似、彼が後ろにして来た岸の松風のようでもあった。 「はて?」 耳を疑うらしく、敦盛は、兜の眉廂まびさし
を沖へあげていた。 彼が、目ざしていた船は、ここに漂う味方の一騎を知らずにいるのか、かえりみている余裕もないのか、かえって、沖遠く過ぎかけていた。 そして、また、幾艘ともない船団のくずれが、大輪田や、駒ヶ林方面から、おなじ水路を通っていたが、いずれも、屋島へ屋島へ、と心もそらに逃げ落ちて行くみじめな敗軍の残影ざんえい
でないものはない。 敦盛は、じんと瞼まぶた
を熱くして、 「あわれ、無残な味方の敗けようかな。平家も今日までの末路か」 と、馬を泳がす必死な力も失いかけた。 それとともに、さっきから
「おうういっおううい」 としきりに聞こえて来る声も、味方の船からでなかったことがようやく分かった。 「どこで、たれの呼ぶ声」 と、浪間の姿は、しばし、迷うらしかった。 鍬形くわがた
の兜の星が、キラと、陸地の方を振り向いた。 そして初めて、声の主を、その眸は知ったらしく、まばゆげな翳かげ
を内兜うちかぶと の顔半分にえがいて、じっと、こなたを見すましている。 海面は、一瞬の間も、おなじ色でなかった。朝雲の歩みのままに、その光燿こうよう
と色相しきそう を刻々に変へん
じていた。 ── 見れば、岸を後ろに、遠浅の果てまで迫って来た一騎の武者が、鉄のような勇姿を、波光の中に、黒々と滲にじ
ませていた。 片手に、軍扇ぐんせん
をかざし、敦盛の姿へ向かって、執拗しつよう
にまで、 「おおおいっ。返せ。返させ給え」 と、野太のぶと
いサビ声を、ふりしぼっていたのであった。 |
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