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次ぎの日、旅人のうわさには。 木曾の軍勢は、もう洛中に姿を現し、いたる所で、平家有縁
の者が、追捕 の兵に刈りたてられ、また諸所で大量は殺戮
も行われたりしているという。 「── やがては、摂津の野も山も掃
いて来ようぞ」 昆陽野
を立った平家一門は、絶えず後ろ風に襲われた。牛馬に鞭
打ってなだれ合い、芦屋
、御影 の浜と、心もそらに急ぎつづけた。 生田川
を渡ったとき、初めて、ほっとしたことであろう。ようやくようやく、そこは福原の旧里
であった。 平家のとって、ここは第二の故郷であり、都である。 亡き平
相国 清盛
が、晩年の日のあらましを送っていた雪ノ御所をはじめ、花見
の岡 ノ御所
、月見の浜ノ御所、泉殿
、松蔭殿 、馬場殿、二階の桟敷殿
、萱 ノ御所
。 また、ひと年 、遷都
のあったころの皇居 ── 里
ノ内裏 。 そのころは繁昌だった横縦幾条
の町々やら、港の市やら、山の社
、磯 の寺々など、人影は絶え、鐘の音もさびれ果ててはいたが、なお、塔の先や、大屋根の甍
は、木の間にそのまま望まれる。 「ああ、わずか三年、故入道が、世を去り給うてよりは、満
二年でしかない。それなのに、こうも変わり果てるものか」 一歩、旧里
の辻へ入ると、人々はみな懐古
に胸をふさがれた。宗盛の別荘
、頼盛の別館、教盛 、重衡
、維盛 などの一族が門をならべていた、そこここの邸宅も、蔦
や雑草に埋もれ、屋根は烏がついばみ、門廊は風雨に朽ち、そして、野獣以外の人間にも荒され抜いたことであろう、どの館も例外なく、高欄
の金具まで剥 ぎ盗
られていた。 「たれよりも、御老体の尼公
こそ、お疲れでおわそう。主上、女院にも、一夜二夜のお憩
いなくては」 輦輿
を始め、二位ノ尼の輿 も、ひとまず、清盛の旧居
、雪ノ御所へ入った。 宗盛は、ひとやすみすると、さすが、母の尼公の体が、心配になって来たので、さそおく、老母のいる萱
ノ御所 へ来て、 「さだめし、身も心も、お疲れでしょうが、何もお障
りはございませぬか」 と、いたわった。 「いいえ」 尼公は、日ごろのままだった。 「西八条を出たときから、わが身のことなど、思うているひまもありません。あなたこそ、人いちばい肥
えたお体で、重 げな鎧兜
を着、どうあろうかと・・・・」 「なんの、わたくしはまだ三十代です。馴れぬ業といっても」 「ゆうべはようお寝
みなされたかの」 「さすが、どうしても、眠れませんでした。つかのま、うとうとろしただけで」 「そのようなことでは、行く末、お体もつづきますまい。一門の御総領
、重すぎるほどなものがあなたの肩にかかっておりまする」 「それゆえにです。眠りつくまも、とつこうつ・・・・」 「亡き入道殿は、どんなときでも、眠るだけは、よう眠るお方でした。側の者が、気が揉めるほど。・・・・せめて、そのことだけでも、お父君に似て給われ」 「いや、お案じくださいますな。父のようには参りませんが、時忠殿をはじめ、経盛殿、教盛殿など、みな宗盛を力づけてくださいます。やがてまもなく、一殿
に集まって、西国への船支度やら、四国、九州、山陽山陰の有縁
の武士へ、召状 をまわす手配など談合いたすことになっておりまする」 「集議
集議 と、何事によれ、御一族へおはかりもよろしいが、あなた御自身、つねに大きなお考えとお覚悟がなくてはなりませぬ。──
おいとけない主上を奉 じ、あまつさえ、賢所
の三種 の御神器
まで流浪 のさきへお持ち出し遊ばしたのでございましょう。この国が肇
まってからないことでありましょうに」 「はい」 「それだに、お忘れなくば」 なぐさめるべく顔を見せに行った母から、子の彼は、かえって、逆に励まされた。 肥えているので、一見、重厚らしく見えるが、その内容はぶよぶよして頼りないことを、二位ノ尼もよく知っていたに違いない。
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