人数は、どっと、宵の女院御所を襲った。 兵は、土足で御所の内を歩きまわり、几帳
、御簾を押し分けて、 「女院は、いずこぞ」 「若宮は、どこへ隠し参らせたぞ」 と、大暴れに、家捜ししてまわったということである。 そして、幼い若宮だけが見つけ出され、馬の上に為盛が抱き参らせて、西八条へ引き揚げて行った。 この若宮は、以仁王のお子である、女院は育ての親にすぎない。──
後に、東寺とうじ の別当、安井ノ宮道尊といわれたのは、このお子である。 清盛は、その夜、頼盛の報告を聞いて、満足な容子ようす
だった。ひきとめて、長々と、話しこんだ末、こう言った。 「よしよし、女院は追うな、深山の寺にでも逃げ入られたのであろう。若宮は、まだ、いとけない。おことの手から、どこぞ寺へでもお入れしたがいい」 頼盛は、ほっとした。同時に、依然として、自分を疑わない義兄あに
、そしてまた、底知れない大ざっぱな処置に対しても、彼は、自分のうしろめたさが、やりきれないほど、自分を暗鬱あんうつ
なものにして帰った。そのころ、三井寺の猛火が、東の空を焦がしていた。途々、彼は何度も、心のうちでつぶやいた。 「弓矢は捨てよう。これをしおに、こたびこそ、弓矢を捨てねば・・・・」 二十八日の西八条邸は、まるで往来の辻みたいに、武者も出入りがはげしかった。 三井寺法師の処分やら、薩摩守忠度の一隊が、宇治から帰り、携えて来た幾つかの首級を、実検に供えて、 「宮か、否か」 また、 「頼政か、どうか」 を、鑑別するなどのためだった。 その結果、頼政の方は、たれも見知っていたので、すぐ明らかになった。 忠度の話によると、 「渡辺唱となう
と申す年来の従者が、主君の首を抱いて、木津こづ
ノ河原かわら に逃げ退き、いずこかに、埋い
け隠さんとするうちに、矢に中あた
って、斃たお れていたものにございまする」 と、説明し、また、宮の御首級みしるし
と認めたものには、 「奈良坂で引き捕えた宮の一いち
舎人とねり の申し立てに、宮はその日、藍摺あいずり
の水干すかん 、小袴こばかま
小袖こそで を召されたりとのこと、それとともに、光明山こうみょうせん
のふもとの大楠おおくす の下に、舎人の申したごときお死骸しがい
が見出され、かたわらの土新しき下より、まぎれもなき御首級みしるし
が掘り返されました。これこそ、ありし日の以仁王におあわしましょうず」 と、言い足した。 |