〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/25 (日) みやこ うつ し (二)

人数は、どっと、宵の女院御所を襲った。
兵は、土足で御所の内を歩きまわり、几帳きちょう 、御簾を押し分けて、
「女院は、いずこぞ」
「若宮は、どこへ隠し参らせたぞ」
と、大暴れに、家捜ししてまわったということである。
そして、幼い若宮だけが見つけ出され、馬の上に為盛が抱き参らせて、西八条へ引き揚げて行った。
この若宮は、以仁王のお子である、女院は育ての親にすぎない。── 後に、東寺とうじ の別当、安井ノ宮道尊といわれたのは、このお子である。
清盛は、その夜、頼盛の報告を聞いて、満足な容子ようす だった。ひきとめて、長々と、話しこんだ末、こう言った。
「よしよし、女院は追うな、深山の寺にでも逃げ入られたのであろう。若宮は、まだ、いとけない。おことの手から、どこぞ寺へでもお入れしたがいい」
頼盛は、ほっとした。同時に、依然として、自分を疑わない義兄あに 、そしてまた、底知れない大ざっぱな処置に対しても、彼は、自分のうしろめたさが、やりきれないほど、自分を暗鬱あんうつ なものにして帰った。そのころ、三井寺の猛火が、東の空を焦がしていた。途々、彼は何度も、心のうちでつぶやいた。
「弓矢は捨てよう。これをしおに、こたびこそ、弓矢を捨てねば・・・・」
二十八日の西八条邸は、まるで往来の辻みたいに、武者も出入りがはげしかった。
三井寺法師の処分やら、薩摩守忠度の一隊が、宇治から帰り、携えて来た幾つかの首級を、実検に供えて、
「宮か、否か」
また、
「頼政か、どうか」
を、鑑別するなどのためだった。
その結果、頼政の方は、たれも見知っていたので、すぐ明らかになった。
忠度の話によると、
「渡辺となう と申す年来の従者が、主君の首を抱いて、木津こづ河原かわら に逃げ退き、いずこかに、 け隠さんとするうちに、矢にあた って、たお れていたものにございまする」
と、説明し、また、宮の御首級みしるし と認めたものには、
「奈良坂で引き捕えた宮のいち 舎人とねり の申し立てに、宮はその日、藍摺あいずり水干すかん小袴こばかま 小袖こそで を召されたりとのこと、それとともに、光明山こうみょうせん のふもとの大楠おおくす の下に、舎人の申したごときお死骸しがい が見出され、かたわらの土新しき下より、まぎれもなき御首級みしるし が掘り返されました。これこそ、ありし日の以仁王におあわしましょうず」
と、言い足した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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