〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/25 (日) みやこ うつ し (一)

三井寺炎上の前夜である。
つまり、知盛が、宇治川から引き続いて、三井寺攻めに向かった同じ夜の同じころといってよい。
池大納言頼盛は、その日の昼、西八条へ呼ばれ、清盛から特別な命を受けて、室町の館へ帰った。
沈痛な面である。
彼の妻は、彼の命じられて来た使命が何であるかを、すぐ察していた。
「為盛はおるか」
「さきほどから、お帰りを案じて、光盛と一つに、じっと、ひと間に息をつめておりまする」
「呼んでくれい、ここへ」
兄弟ふたり ともに」
「おお、兄弟ふたり とも」
妻の大納言ノ局は、やがて子息の紀伊守為盛と、光盛とを、良人おっと の前に伴って来た。
「・・・・苦しいことに相なった。こよい、御所を取り囲んで、女院のおん身と、若宮とを捕え、西八条へ連れよという、入道相国のお指図なのだ」
「さもあろうずと、およそは、お察しいたしておりましたが」
「紀伊」
「は」
「どうしたものぞ。そちはわが家の嫡子、まず、所存な申してみい」
「・・・・はい」
紀伊守為盛は、考え込んだ。
以仁王もちひとおう御謀叛ごむほん と騒がれ出してから、宮と密接な関係のある八条院も、自然、争乱の渦中におかれていた。
また、頼盛にも、疑いの眼が向けられた。── 頼盛一家と八条女院 ── この間がらも昨日今日の親しみではない。
「一案がございますが」
為盛は、声をひそめた。
にわかなこととて、是非を論じているひまもない。為盛の策をただちに行うことに決め、大納言ノ局は、牛車にかくれて、まもなくどこかへ外出した。
女院の御所は、ここから目と鼻の先の梅小路であった。車には、二男の光盛がついてゆき、ほどなく、また家へ戻って来た。
大納言ノ局とともに、八条女院も、宵にまぎれて、御所を脱け出して来られたのである。
── が、頼盛は、眉をひそめた。
「若宮は、いかが遊ばしたか。若宮のおん身は?」
光盛は、両手をついて、父へ びた。
「どうしても、お迎え申すことが出来ませんでした」
「・・・・なぜ」
「まだ、がんぜないお年なので、どう、おさとし申しても、いやじゃ、と泣き叫ばれて、車へお乗りなさいませぬ。とこうするまに、見張りの武者どものさと られてはと」
頼盛は、まぶた をふさいだ。
そのとき、ふと、去年の暮れの夜、義兄あに に呼ばれ、西八条の一室で、火桶ひおけ をかこみ、
「今日限り、弓矢を捨てます」 と言った自分の言葉が思い出された。
なぜ、あの時の意志を通して、弓矢を捨て切ってしまわなかったのか。今宵のような辛い立場に立たなかったものよと、彼は悔いを噛むのであった。
「言って来る。為盛、支度はよいか」
よろいこそ、身につけて出たが、出陣ともいえない門出だった。為盛は、先に広場へ出て、父の馬をひかせ、家の子郎党を百名ほどを、いでたちさせて待っていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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