三井寺炎上の前夜である。 つまり、知盛が、宇治川から引き続いて、三井寺攻めに向かった同じ夜の同じころといってよい。 池大納言頼盛は、その日の昼、西八条へ呼ばれ、清盛から特別な命を受けて、室町の館へ帰った。 沈痛な面である。 彼の妻は、彼の命じられて来た使命が何であるかを、すぐ察していた。 「為盛はおるか」 「さきほどから、お帰りを案じて、光盛と一つに、じっと、ひと間に息をつめておりまする」 「呼んでくれい、ここへ」 「兄弟
ともに」 「おお、兄弟ふたり
とも」 妻の大納言ノ局は、やがて子息の紀伊守為盛と、光盛とを、良人おっと
の前に伴って来た。 「・・・・苦しいことに相なった。こよい、御所を取り囲んで、女院のおん身と、若宮とを捕え、西八条へ連れよという、入道相国のお指図なのだ」 「さもあろうずと、およそは、お察しいたしておりましたが」 「紀伊」 「は」 「どうしたものぞ。そちはわが家の嫡子、まず、所存な申してみい」 「・・・・はい」 紀伊守為盛は、考え込んだ。 以仁王もちひとおう
の御謀叛ごむほん と騒がれ出してから、宮と密接な関係のある八条院も、自然、争乱の渦中におかれていた。 また、頼盛にも、疑いの眼が向けられた。──
頼盛一家と八条女院 ── この間がらも昨日今日の親しみではない。 「一案がございますが」 為盛は、声をひそめた。 にわかなこととて、是非を論じているひまもない。為盛の策をただちに行うことに決め、大納言ノ局は、牛車にかくれて、まもなくどこかへ外出した。 女院の御所は、ここから目と鼻の先の梅小路であった。車には、二男の光盛がついてゆき、ほどなく、また家へ戻って来た。 大納言ノ局とともに、八条女院も、宵にまぎれて、御所を脱け出して来られたのである。 ──
が、頼盛は、眉をひそめた。 「若宮は、いかが遊ばしたか。若宮のおん身は?」 光盛は、両手をついて、父へ詫わ
びた。 「どうしても、お迎え申すことが出来ませんでした」 「・・・・なぜ」 「まだ、がんぜないお年なので、どう、おさとし申しても、いやじゃ、と泣き叫ばれて、車へお乗りなさいませぬ。とこうするまに、見張りの武者どもの覚さと
られてはと」 頼盛は、瞼まぶた
をふさいだ。 そのとき、ふと、去年の暮れの夜、義兄あに
に呼ばれ、西八条の一室で、火桶ひおけ
をかこみ、 「今日限り、弓矢を捨てます」 と言った自分の言葉が思い出された。 なぜ、あの時の意志を通して、弓矢を捨て切ってしまわなかったのか。今宵のような辛い立場に立たなかったものよと、彼は悔いを噛むのであった。 「言って来る。為盛、支度はよいか」 よろいこそ、身につけて出たが、出陣ともいえない門出だった。為盛は、先に広場へ出て、父の馬をひかせ、家の子郎党を百名ほどを、いでたちさせて待っていた。
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