こうして、知盛、重衡の手勢が、三井寺攻めに向かってから半夜の後、正しくは翌二十七日の明け方ごろである。ものすごい黒煙
が東方に望まれ、やがて大津あたりの空いちめん、真っ赤になって焼けただれた。 そこで激戦が始まったのだ。 火勢の強さ、長等山ながらやま
に谺こだま する雄お
たけび、矢響きの激しさなど、到底、前日の宇治川や平等院の比ではない。 それより前に。 三井寺への抑えには、前さきの
右大将宗盛の軍や、通盛みちもり
、経俊などの手勢が、遠巻きをかけていた。 しかし、三井寺側には、充分な防備があった、壕ごう
を掘り、逆茂木さかもぎ をかけ、櫓やぐら
には、楯を並べ、強弓をよくする僧兵を配して、 「ござんなれ、仏敵」 と、武力と信仰とが結びついたものの強さを誇示こじ
している。 平家勢は、それにも、うかとは当り難い気がしたし、かつは天智天皇の御願寺ぎょがんじ
となって以来、叡山、南都とも並び称される、ゆゆしい御寺みてら
である。── 常住の僧綱そうごう
十数名、行学の名師、弟子、堂衆を加えれば一千余人。これが、武器甲冑かっちゅう
を帯し、地の利をとって、一団になったのを見ては、手のつけようもない気がしたのは、無理ではない。あながち、平家方の怯気きょうき
とばかりはいえないものがある。 なぜならば。 武者も仏徒だからである。士卒の端までが、みな仏陀ぶつだ
の信者なのだ。家には持仏堂とか、仏壇を持ち、妻子も朝夕に礼拝を怠っていない。上は天皇から、凡下にいたるまでが、そうだった。寺院の結界けっかい
は、不可思議な光彩の世界に見え、禁裏とひとしく、何か犯し難いものを、そこにはたれもが無意識に抱いてしまう。 「火を放つな。火を過あやま
つな」 という軍令が出、 「矢は射るとも、御本坊、教待和尚きょうたいおしょう
の尊像に、矢を射向けるな」 と、はばかるようでは、なおさら、そこの金城鉄壁のわけだった。 ところが、知盛、重衡の一軍が来ると、たちまち、火の手が揚がった、喊声かんせい
をあげて、寺中へ攻め入り、全山、猛烈な白兵戦となった。 三井寺炎上の黒けむりは、未明から夕方まで続き、焼け落ちた建物は、本覚院、成喜院、真如院、花園院、大宝院、清滝院などの諸房や、大講堂、経蔵、社壇、宝殿など、幾十の堂舎と塔廟とうびょう
を灰にし、そのうえ、大津の民家に飛び火して、在家の焼亡一千余軒という惨状ぶりだった。 終日の激戦と炎の中で、法師の討死三百余人、縄目なわめ
にかけられた僧綱十三人、堂衆の主なる大法師三十幾名といわれ、それらの捕虜たちは、続々、六波羅へ追っ立てられた。 「あれよ、三井寺が焼ける」 「三井寺が火攻めに陥ちた」 洛中の人びとは、空を仰いで、うわ言みたいに口走った。 「あら勿体もったい
なや、顕密けんみつ の道場も、黒煙くろけむり
と化し、三千の御仏も、火の塵ちり
となって、空に舞うわ」 「これや、ただ事ではない、世も末か」 「いやいや、世の絶える筈はない。平家も末となった前表ぜんぴょう
でがなあろうよ」 |