〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/25 (日)    (四)

こうして、知盛、重衡の手勢が、三井寺攻めに向かってから半夜の後、正しくは翌二十七日の明け方ごろである。ものすごい黒煙くろけむり が東方に望まれ、やがて大津あたりの空いちめん、真っ赤になって焼けただれた。
そこで激戦が始まったのだ。
火勢の強さ、長等山ながらやまこだま する たけび、矢響きの激しさなど、到底、前日の宇治川や平等院の比ではない。
それより前に。
三井寺への抑えには、さきの 右大将宗盛の軍や、通盛みちもり 、経俊などの手勢が、遠巻きをかけていた。
しかし、三井寺側には、充分な防備があった、ごう を掘り、逆茂木さかもぎ をかけ、やぐら には、楯を並べ、強弓をよくする僧兵を配して、
「ござんなれ、仏敵」
と、武力と信仰とが結びついたものの強さを誇示こじ している。
平家勢は、それにも、うかとは当り難い気がしたし、かつは天智天皇の御願寺ぎょがんじ となって以来、叡山、南都とも並び称される、ゆゆしい御寺みてら である。── 常住の僧綱そうごう 十数名、行学の名師、弟子、堂衆を加えれば一千余人。これが、武器甲冑かっちゅう を帯し、地の利をとって、一団になったのを見ては、手のつけようもない気がしたのは、無理ではない。あながち、平家方の怯気きょうき とばかりはいえないものがある。
なぜならば。
武者も仏徒だからである。士卒の端までが、みな仏陀ぶつだ の信者なのだ。家には持仏堂とか、仏壇を持ち、妻子も朝夕に礼拝を怠っていない。上は天皇から、凡下にいたるまでが、そうだった。寺院の結界けっかい は、不可思議な光彩の世界に見え、禁裏とひとしく、何か犯し難いものを、そこにはたれもが無意識に抱いてしまう。
「火を放つな。火をあやま つな」
という軍令が出、
「矢は射るとも、御本坊、教待和尚きょうたいおしょう の尊像に、矢を射向けるな」
と、はばかるようでは、なおさら、そこの金城鉄壁のわけだった。
ところが、知盛、重衡の一軍が来ると、たちまち、火の手が揚がった、喊声かんせい をあげて、寺中へ攻め入り、全山、猛烈な白兵戦となった。
三井寺炎上の黒けむりは、未明から夕方まで続き、焼け落ちた建物は、本覚院、成喜院、真如院、花園院、大宝院、清滝院などの諸房や、大講堂、経蔵、社壇、宝殿など、幾十の堂舎と塔廟とうびょう を灰にし、そのうえ、大津の民家に飛び火して、在家の焼亡一千余軒という惨状ぶりだった。
終日の激戦と炎の中で、法師の討死三百余人、縄目なわめ にかけられた僧綱十三人、堂衆の主なる大法師三十幾名といわれ、それらの捕虜たちは、続々、六波羅へ追っ立てられた。
「あれよ、三井寺が焼ける」
「三井寺が火攻めに陥ちた」
洛中の人びとは、空を仰いで、うわ言みたいに口走った。
「あら勿体もったい なや、顕密けんみつ の道場も、黒煙くろけむり と化し、三千の御仏も、火のちり となって、空に舞うわ」
「これや、ただ事ではない、世も末か」
「いやいや、世の絶える筈はない。平家も末となった前表ぜんぴょう でがなあろうよ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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