彼は眼をつむった。 胸中の構想を、彼自身、もういちど案じ直してみた。表として書き上げた諸国源氏のうち、大半以上は、かならず宮の令旨が降
れば、呼応して起つものと、これは信じて疑わない。 なぜならば。 あながち、人為人力のみではない。彼らの芽の上には季節の太陽が来ているのだ。 時なるかな、西八条、六波羅、福原、また殿上平家の花の雲は、なんと、咲きみち、盛りきった爛熟らんじゅく
を、色にも現しているではないか。 そよとでも吹く風あれば ── と、頼政は観み
ている。保元、平治、その以後の世事世態を見抜いて来た老眸ろうぼう
は、そう観ている。 彼が、その “季節” を感じ出したのは、昨年中の山門大衆の動きや、洛中の無秩序状態を見てからであり、かつはまた、新宮十郎と会って、親しく、源九郎義経の素質を聞き、また、伊豆の頼朝の成人も、つねに確かめてのことだった。 年暮くれ
となって。── 清盛の法皇拘禁の暴挙を知るや、頼政は、 「いよいよ、迫った」 と、心支度も、そわそわであったが、なお、 「待てしばし」 と、あくまで辛抱強く、成り行きを、ながめていた。
そして、その間、彼が、最も、細心に見ていたのは 「池ノ頼盛の処分」 だった。 もし、頼盛もまた、遠流にでもなるようなら、事発覚の公算は多分にある。六波羅の逆討ちをくわない前に、われから兵を挙げるしかあるまいとさえ考えられた。 しかし、池ノ頼盛は、謹慎にとどまり、それも正月には、復職した。──
まずはと、胸なで下ろしたことだった。 なぜというに、池ノ頼盛は知っている。── 後白河の御使嗾ごしそう
も、以仁王のお企みも、また、頼政が、宮を説き参らせた裏面のことも ── 頼盛はすべて耳にしていなければならない理由があった。 頼盛の一家と、八条女院との関係が深いように、以仁王と女院との間も、ただの親しさではない。 宮は、八条女院の御猶子ごゆうし
であった。 また、宮の幼いお子二人は、八条女院の手もとで養われている。 しかも、女院の内に多年仕えている八条蔵人仲家は、先生せんじょう
帯刀義賢たれわきよしかた の遺子で、いま信濃にある木曾冠者義仲の兄に当る者であった。 このように、女院は以仁王の御親身であり、味方である。 仲家も、もちろん一味に連名している。──
当然、事を挙げれば、池ノ頼盛もまた、平家を裏切って、味方に散ずる者とかぞえられていたのだった。 なお、以仁王方には、もう一名、有力な味方がかぞえられている。 しかも、その味方は、いまや叡山に呼びかけ、奈良に働きかけて、「法皇の奪取」
を計り 「平家への法門攻勢」 と、三山連合を称えている策源地 ── 園城寺 (三井寺) の内にいた。 宮の義弟君おととぎみ
にあたる園城寺の長吏、円恵法親王である。 頼政も、味方に、この法親王のあることは、いと、頼もしく思っている。 平家を脅威するには、遠い関東の源氏より、都の外輪がいりん
をなしている三山の連合にある。もし、叡山、三井寺、奈良の連合が成立して、三方から、都を突くならば、六波羅、西八条も、あるいは一夜に壊滅かいめつ
することが出来るかも知れない。 もしまた、出来ないまでも、三山を抱き込めば、東国北陸の源氏勢は、快馬かいば
一鞭いちべん のもとに、都入りを成し遂げられよう。反対に、叡山、三井寺などが、平家方に立つ場合は、東からでも北からでも、そこの突破は、容易ならぬ障壁となる。 あれやこれやと、頼政の煩わずら
いは、果てもない。 しかしそう万全を望んで、辛抱のみを、よしといているまに、もし 「機」 をはずして、逆に、平家の知るところとなったら、それこそ、王も頼政も、一味すべて、袋の鼠ねずみ
だ。 「平家二十年、春は熟う
れ切った。人生七十七年、わしも生き過ぎたといえるほど生きた。若葉せずにいられぬ木々の芽は催促しておる。季節は来た、そろそろよいぞと」 |