〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
り ん ね の 巻 (つ づ き)

2013/08/07 (水) 忘 ら れ 人 (三)

いくたびかの時鳥ほととぎす の声が ける。なぜか、今夜は胸にひびく。
四月九日夜。夜は深い。
いまし方、嫡子仲綱一人だけを連れて、御所の一殿はえ通った頼政は、
「しばらく、お控えを」
と、言われるままに、寂として、すわっていた。
奥との通いにも、その間の話し相手にも、姿を見せたのは、そう少納言しょうなごん 惟長これなが だけだった。
「宮には、けさ、斎戒沐浴さいかいもくよく あそばして後、昼は、御祈念にこも られ、夜にはいっては、御一室をとじられたまま、何か御浄書のようでございました」
惟長は、そう言った。
令旨りょうじ
その重大なものの御浄書であろう。推敲すいこう であろう、筆に心血をそそいでおられる宮のお姿が、頼政には。眼に浮かんで来る。
「まだ、新宮十郎行家も参りあわさぬ様子。どうか、宮には、お急ぎなきように」
頼政は子の仲綱とともに、なお控えていた。
半簾はんれん を掲げたそこの灯影は、欄下へこぼれて、池の の端を、真っ青に照らし出していた。かきつばたの花であろう、紫はいや深く、白いはいや白く、そこここに浮いて見える。
ふと、その辺で、かわず いた。
蛙たちが ── まだ稚い蛙たちまでが ── 七十七にもなる老翁の愚を、あざわら うかのように、頼政には聞こえた。
今も今とて、彼は、心のうちで、
「この、かきつばたの紫や白さを、来年は見ることもあるまい」
などと、ひとり思いふけっていた。
では、勝算はないのか。いや、勝算もなく起つほど無分別な彼ではない。
ただ彼一個の感慨である。七十七の終局は、
「ことし、治承四年を越えることはない」
と、ひそ かに期しているだけなのだ。
「思えば久しい辛抱の生涯ではあった。やれやれ、ようやく、にん の一字ともたもと を分かつ時が来たわえ」
平治の一戦には、裏切り者とののしられ、六波羅に随身の後は、犬四位よとあだ名され、道を行けば、牛の草鞋わらじ 、家に籠れば、石つぶてを投げられたりのがずかし めにも、われながら、よく耐えて来たと思う。
「今こそ、にん とも別れよ、わら わば嘲え、蛙ども」
彼も、自嘲じちょう をふくんだ。
さばさばと、初夏の深夜は、肌心地がいい。
「余命、わし一個は、いくばくもあるまい。しかし源氏は若い。わしは死のうが、源氏は死なぬ。それでよいのだ。わしの接木つぎき の役はすむ

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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