〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
り ん ね の 巻 (つ づ き)

2013/08/07 (水) 忘 ら れ 人 (二)

“忘られ人” のお蔭には、平家の一兵も、ここには見えなかった。しかし、周囲の騒音は、もうこの築土ついじ 内に宮を晏如あんじょ とさせておく情勢ではない。
他動的にではあるが、宮も、いまは つべき時と、お覚悟をもつに至った。
文才のお方だけに、御頭脳は粗雑ではない。万全な勝算をと、夜陰、いくたびか頼政を召されて、
「院は、つい えたが、たの むは、たれたれぞ」
ただ されもした。
「姿こそ見えね。地にみつる天下の源氏です」
と、頼政は答え、そのとき、「諸国源氏ぞろえひょう 」 なるものを、御覧に供えた。
それを見ると、平家二十年の治下に、源氏はまったくその影をすら絶ったかのようでありながら、根は残っている。いや、地表の下をはう根から根をひろげ、次代の萌芽さえ生んでいた。
たとえば、表にある諸国の源氏系を、ざっと見ても。── まず、都近くには、出羽前司でわのぜんじ 光信系の出羽源氏、摂津には多田源氏の家々、河内、大和には、石川一族、宇野一族の源氏。近江の山本、柏木、錦織にしきごり
また。
源氏分布は、東国へよるほど、その族数が当然多い。
美濃、尾張にも、有縁の係累は少なくないし、甲斐国かいのくに には、逸見へみ 、武田、加々美、板垣、一条、安田などの甲斐源氏のむらがりがあり、信濃国には、大内、岡田、平賀の諸族のうちに、六条判官為義の孫で ── 帯刀先生たてわきせんじょう 帯義賢よしかた の次男 ── という木曾冠者きそのかじゃ 義仲もいる。
武蔵、相模は、いわずもがなである、常陸には常陸源氏、信太三郎義教やら佐竹冠者正義、そのほかの諸家。
さらに伊豆には、流人るにん 前右兵衛佐さきのひょうえのすけ 頼朝よりとも
遠くは、今、みちのくにありという九朗冠者義経。

もとより諸国の源氏は第一の基盤である。ひょう に見えぬ門族も少なくない。けれどまた、平家の国司や目代の下に置かれ、平家に服従しきって、今はむしろ、事なかれとしいぇいる桃色源氏もあろうというもの。
で、以仁王にも、源氏揃の表だけでは、なお、二の足をふまれたことかと思われる。
真の御決意は、やはり眼前の条件にあった。四囲のたれかを、味方とかぞえ、 「父法皇を、救い出し参らせん」 とも、誓われたに違いない。
また頼政も、密々、それは工作し、あらゆる智をこらしたことであろう。
頼政とて、おろそかに、この宮をそそのかし、一命一族の運命を け、年も七十七になって、いまさら、こんな大事を粗忽そこつ に計るはずもない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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