“忘られ人”
のお蔭には、平家の一兵も、ここには見えなかった。しかし、周囲の騒音は、もうこの築土
内に宮を晏如あんじょ とさせておく情勢ではない。 他動的にではあるが、宮も、いまは起た
つべき時と、お覚悟をもつに至った。 文才のお方だけに、御頭脳は粗雑ではない。万全な勝算をと、夜陰、いくたびか頼政を召されて、 「院は、潰つい
えたが、恃たの むは、たれたれぞ」 と糺ただ
されもした。 「姿こそ見えね。地にみつる天下の源氏です」 と、頼政は答え、そのとき、「諸国源氏揃ぞろえ
の表ひょう 」 なるものを、御覧に供えた。 それを見ると、平家二十年の治下に、源氏はまったくその影をすら絶ったかのようでありながら、根は残っている。いや、地表の下をはう根から根をひろげ、次代の萌芽さえ生んでいた。 たとえば、表にある諸国の源氏系を、ざっと見ても。──
まず、都近くには、出羽前司でわのぜんじ
光信系の出羽源氏、摂津には多田源氏の家々、河内、大和には、石川一族、宇野一族の源氏。近江の山本、柏木、錦織にしきごり
。 また。 源氏分布は、東国へよるほど、その族数が当然多い。 美濃、尾張にも、有縁の係累は少なくないし、甲斐国かいのくに
には、逸見へみ 、武田、加々美、板垣、一条、安田などの甲斐源氏のむらがりがあり、信濃国には、大内、岡田、平賀の諸族のうちに、六条判官為義の孫で
── 帯刀先生たてわきせんじょう
帯義賢よしかた の次男 ──
という木曾冠者きそのかじゃ 義仲もいる。 武蔵、相模は、いわずもがなである、常陸には常陸源氏、信太三郎義教やら佐竹冠者正義、そのほかの諸家。 さらに伊豆には、流人るにん
前右兵衛佐さきのひょうえのすけ
頼朝よりとも 。 遠くは、今、みちのくにありという九朗冠者義経。
もとより諸国の源氏は第一の基盤である。表ひょう
に見えぬ門族も少なくない。けれどまた、平家の国司や目代の下に置かれ、平家に服従しきって、今はむしろ、事なかれとしいぇいる桃色源氏もあろうというもの。 で、以仁王にも、源氏揃の表だけでは、なお、二の足をふまれたことかと思われる。 真の御決意は、やはり眼前の条件にあった。四囲のたれかを、味方とかぞえ、
「父法皇を、救い出し参らせん」 とも、誓われたに違いない。 また頼政も、密々、それは工作し、あらゆる智をこらしたことであろう。 頼政とて、おろそかに、この宮をそそのかし、一命一族の運命を賭か
け、年も七十七になって、いまさら、こんな大事を粗忽そこつ
に計るはずもない。 |