〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
り ん ね の 巻 (つ づ き)

2013/08/06 (火) 忘 ら れ 人 (一)

まだ三十歳の若宮である。以仁王もちひとおう が、世事にも、政情にもうといお方だったのはぜひもない。
いわば純情、いわば世間知らず。
いちど僧門には入って、また還俗げんぞく したというほか、廟堂びょうどう に立った御体験もなければ、人交ひとまじ わりもなく ── さりとて生活の御艱苦ごかんく もなめてはいず ── ただ三条高倉の御所に領田 (扶持) を添えて置かれて来ただけの “忘られ人” に過ぎなかった。
詩を作り、絵をよくし、また、玉笛をもてあそ ぶ、といったような貴公子的の閑戯には、人より優れておられたらしい。
しかし、このお人が、 「平家をたおさん」 などという発起をどうして抱いたものか。
おそらく、宮自身でも、そんな首謀者に立とうとは、頼政に説かれるまで、思いもしていなかったことであろう。ことに、そう少納言しょうなごん 惟長これなが などから 「── 宮には自然、帝王のそう がおかお にそなわっております」 などと言われなかったら、御不平も、欲望も、なお眠ったままお胸におかれていたにちがいない。
身は後白河の子、さき の天皇は、わが異母弟おとと ではないか。さるを、母が清華せいが の出でないばかりに、親王にも立たず、埋もれ木にされてきた。平家をのろ う洛中の不穏も、頼政のすすめも、われに藪門そうもん を出よと、春を告ぐる声であろう。そう ノ少納言の予言は、それの天示にちがいない」
幻想が不平を育て、不平が幻想をつちか う。
わけて頼政から、 「宮に平家討滅のお志あるは、法皇におかれても、御満足なのです。事をともに挙げるはむずかしいが、宮の起つ時あらば、院も後巻うしろまき して、いくさ を援けんとも、仰せられました」 ── と聞かされたからは、一そう、決意を固められたものだった。
要するに、宮は仮体であって、主体ではない。主体は、老三位頼政といえる。
いや、これも平家をして、八方の禍に困憊こんぱい させようと計っておられた後白河の一策であり教唆きょうさ であったと、見られないこともない。
しかも、宮は宮のお立場から、あれこれ、必勝の工夫くふう をこらされた。── 生涯の大事と、以来は、風雅も捨てて、ただ秘策をあん じておられた。
お胸にたの む第一のものは、もちろん 「院」 の力である。うしろだてには、父法皇や近臣の実力がある、自分が起って、戦乱状態になれば、機を計って、 「院」 も表面に出るという頼政を介しての黙契を、かたく信じて疑おうともなさらない。
ところが、事態は、一変した。
恃む 「院」 はなくなった。
院の諸公卿は、追放され、法皇は、幽所に拘禁されてしまった。
あの騒動には、宮も、
「もしや、ここへも、平家の手が」
と、外の世音に、一時は、恟々きょうきょう としておいでだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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