〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
り ん ね の 巻 (つ づ き)

2013/08/06 (火) び っ こ (三)

どこへ。── といううちに、やがて、三条高倉の暗い辻を横へ曲がった。いつも鬱蒼うっそう として、この辺は暗い。木立の下の高築土たかついじ は、以仁王もちひとおう の御所である。
「兼綱、兼綱」
駒を降りると、頼政が言った。
「夜明けぬうちに、事終わろう、外の見張り、申し付けたぞ」
「はっ。お案じなく」
仲綱も、また、
「弟、くれぐれ、抜かるまいぞ」
念を押しながら、老父の影について、門の内へ、すっと、消えた。
兼綱は、あとに残って、
「唱は、西門へ立て、競は、裏の雑人門へ」
と、それぞれへ手配をいいつけ、御所のまわりを、物蔭に居て、見張っていた。
すると、半刻はんとき もたたないうちに、またも、ここの木暗がりをうかがいながら、ただ一人で、表御門の潜りへ近づこうとした男がある。
男は、跛行びっこ だった。
歩くたびに、左に肩を落しぎみに、ちんばの片足をひいていた。
兼綱はすぐ 「怪し」 と見、 「やわか、見のがすべき」 とばかり、物蔭から躍り出て、
「何者ぞ、どこへ参る」
と、男の前に立ちふさがった。
跛行は、ぎょっとしたらしい。反射的に、身構えをもち、手は、太刀の柄をにぎっていた。── 眉深まぶか に頭巾はしていたが、物ごし、服装、一かどらしい武者だった。
「わぬしこそ、どこのたれぞ」
武者は、あべこべに、兼綱をしかりつけた。そしてさわ容子ようす もなく言い払った。
「八条女院に仕うる蔵人くろうど の仲宗を知らぬ下臈げろう は、よも、当御所の仕え人ではあるまい。おのれは、なにやつか」
「あっ・・・・もしや、あなたは」
「なにっ」
「仲宗殿ではありますまい、蔵人くろうど の仲宗なら見知っております。それとは、御別人の・・・・」
「そう申さるる御辺は、近衛河原の者か」
「そうです、三位頼政の二男」
「や、兼綱よな」
「では、あなたは、新宮十郎行家殿でございましょうが」
「そうだ、いや、驚かせたのう」
「父も父です。あとより行家殿が見えると、いいおいてくれれば、かような慮外りょうがい はいたしませぬものを」
「いや、そちらの御失念ではない。こよいは、頼政殿より先に御所へ参って、お待ち申すという約束だった。さわ りがあって、思わぬ遅刻。落度は、わが身よ。── して、頼政殿には」
「つい、今しがたに、兄仲綱とともに」
「行家はいかにせしと、さだめし、眉をひそめておられよう。やれ許し給え、それがしこそ率爾そつじ な申した」
行家は詫びて、そこの門のとびら を、啄木きつつき のように、コツコツとたたいた。
内から、門が半分開いた。不自由な片足を、ひょこひょこひいて、すぐ門内へかくれて行った行家の影をながめ、兼綱は、やっと思い出していた。
去年の秋。
七条佐女さめ うし の刑場で、痛手を負い、伊香立いかだち の砦で、しばらく病み していたという十郎行家の消息を、兄仲綱から、聞いていた。
その後 ── 伊香立を焼き払って、竹生島へ退いたとの消息もあったが、九郎義経が、京を去って、みちのくの遠くへ帰った後は、十郎行家も、故郷、熊野の新宮へ帰国し、この正月は、あたたかな紀南で久しぶりに春を迎えた ── とも、兄へよこした便りに見えた。
「こよいのため、はるばる、熊野から上って来られたものであろう。船も馬もありとはいえ、さても、あの跛行では、難儀な旅であったろうに」
兼綱は、そんな後味あとあじ をもった。そしてまた元のように、袖塀そでへい の蔭へ、身をひそめた。
いやに、生暖かな初夏の夜半だった。風は南とみえ、深夜の大屋根を、吹きから びさせ、蒸れ匂う満庭の若葉も、ただ真っ黒な波騒なみざ いに似て、以仁王もちひとおう のお居間のあたり、垂れ込めた御簾みすうち にだけ、みじか夜の灯が幾点か、荒海わだつみいさ みたいに、揺らめき揺らめき、 けていた。
後に思えば、客を中心に、この夜、密かに寄った頼政たちの運命を、その灯は、象徴していたものだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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