ここに、法皇と清盛との間に、些細
な事ではあるが、両者の日ごろの感情を、露骨にしかけた小事件がもう起こっている。 「ほっとしたぞよ。めでたい」 満悦まんえつ
のおことばを繰り返しながら、法皇が、いざ、還御とみえたときである。 余りのうれしまぎれ ── というものであったろうか。清盛は、立ち際のお袖をひかえて、 「およろこび頒わ
けに」 と。砂金一千両、富士郡の綿二千両 (十六両で一斤とする) を、献上に供えた。 ところが、これははなはだ法皇の御意に添わないらしかった。法皇はじろと、清盛へ一眄べん
をくれて、 「朕ちん へか」 と、わざと、とぼけたようなつぶやきを、お口の端にもらされたから、あたりの大臣たちを見まわして、苦々にがにが
と、笑いまじりに仰っっしゃった。 「諸山の僧侶そうりょ
なみに、朕へも、相国より施物せもつ
あるとか。ははは、朕はこの後、祈祷師となって生活たつき
を立ててゆけそうだのう」 痛烈なお皮肉である。 関白以下、平家に、快こころよ
くない大臣たちは、 「かかるおりに、しかるべからず ──」 といったような眼咎めとが
めをそろえて、みな、清盛を冷やかに見、法皇のみけしきに同調した。 喜びの有頂天を、一蹴いっしゅう
の下に覚まされたような清盛の顔つきだった。たった今の今まで、中宮の御産ごさん
を、あのように案じておられた法皇とは、まったく、べつなお人みたいに、仰がれた。 が、彼にも、法皇のお心が分からないことはない。自分が余りに自己をつつまなかったのが愚だったと悔やまれる。人の意中を読むことに慧敏けいびん
なる君が、早くも 「ばかよろこびをすな」 と暗にしかりつけ、 「早いぞ、歓よろこ
ぶには」 と釘を一本、この清盛の頭上に打ったものだとはすぐ覚さと
れた。 清盛にとって、これは痛かったに違いない。その傷痕は、彼の頭蓋骨ずがいこつ
にある亀裂きれつ を生じていたかも知れない。──
さしも、歓びの日であったが、清盛の顔色だけは、怏々おうおう
として、この日の空のようには晴れなかった。 とかく、こんな時には、変なこともありがちだった。 古来の習慣で、お后が御産ごさん
のときは、御殿の大屋根へ人が登って、“甑こしき
の御儀” ということが行われる。── 甑こしき
というのは、飯を蒸む し炊かし
く壺つぼ のような土器である。──
舎人がそれを持って、屋上へ上り、皇女が生まれたときは、屋根の北側の方へ転まろ
ばして落す。また、皇子が誕生の場合は、南へ落すのが、例であった。 ところが、屋根へ上った者が、どう勘違いしたものか、北へ、甑こしき
をころがしてしまった。 「あっ、ちがう」 「北ではない」 「南よ、皇子ぞよ」 下では、公卿、侍、修験者などが、あわてて、いい噪さわ
いだが、間に合うはずもない。甑は、ころころと、北側の屋根へ落ちて砕けた。 笑ってはいけないと思いながら、みな手を打って、どっと笑う。 ぜひなく、これは、やり直しということになった。 また、同じ朝、千度のお祓はら
いをする陰陽師のひとりが、物につまずいて、冠を飛ばし、髻もとどり
をむき出して、せっかくの儀式を、笑い事にしてしまったとか、また、まだ未明のころ、五条橋を、平家の不吉を暗示するような童歌を謡うた
って駈け抜けた奇妙な朱儒こびと
があったとか ── いろいろ流言めいた取沙汰が、やたら、この二、三日、言い伝えられた。 いったい、たれが言いふらすのか、わからない。 根なし草もあろう、ほんともあろう、けれど、よろこびを一門に占めて、繁栄の極まる所に、こういう陰の声が生じるのは、人界の自然である、たれが言わせるものとも言えない。 だが、この日、この地上へお生まれになった玉のごとき皇子にとっては、なんのおかかりあいもないことである。 中宮のお日立ちもよく、皇子もくりくりとおすこやかに、乳人の乳にすがられた。 皇子、おん名は言仁ときひと
、やがての安徳天皇は、この御子みこ
である。 |