〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (六) ──
御 産 の 巻

2013/07/25 (木) めい   げん (三)

風もない、雲もない。洛中の屋根は、霜に真っ白であった。
朝空は、澄み渡っている。
六波羅を中心に、車大路も、五条のほとりも、何しろたいへんな人馬だ。
かねて勅使をもって、祈願を立てられた神社四十一ヵ所、仏寺七十四ヵ所へたいして、御産平安の報告とともに、それらの寺社へ向かい、それぞれ宮侍みやざむらい や公卿たちが、派遣されるのであった。美しい無紋の狩衣かりぎぬ に帯剣姿の宮人たちが納施のうせ の馬匹やら絹やら供物をささげて、陸続と行く絵巻のような雑踏を、ちまたの窮民は、朝霜の辻々に立ちむらがり、白い息に、歯の根をふるわしながら、ながめていた。
「ああ、えらいこっちゃ」
「たいへんな財宝や」
「同じ人の子の誕生でも」
彼らの眼は、さもしげに、光っている。
足に、わらぐつ も草履もはいていない者さえ少なくない。
懶惰らんだ なのか、仕事がないのか。
着物は薄っぺらだし、つづれてもいる。皮膚は、あかでひからびて見える。
おそらくは、朝のかて も、腹いっぱい食べてはいないだろう。どれも、そんな顔色だった。不潔を不潔とも、寒さを寒いとも、ほとんど無感応で生きているみたいな男女の群れが、この朝の盛観を、ぽかんと、見物していたのである。
すると、中に、ひとりの若い大法師がいて、
「まず、花の盛りも、この辺が見ごろか。いまが、絶頂よ・・・・。あら、見事。咲くものは、咲けるだけ咲いて見せてやれ」
と、つぶやいた。
そばの者は、変な顔をして、大法師の頭巾ずきん のうちをのぞき上げた。
「お坊さんは、山門かね」
「そうだ」
「ひとりごとを言っているが、なんのこったい」
「花見をしているのだ。おまえたちも、花見をしているのではなかったか」
「冬だよ、今は」
「ああ、冬だ」
「いけねえ、気狂いだな、こいつは」
「おれか。ははは」
若い大法師は、くるりと、身をひるがえして、群から抜けた。
と、人の輪の中からまた、べつなおことの顔が、彼に背を振り向いて、
「おい、武蔵坊」
と、呼びかけた。
「・・・・?」
大法師は、立ち止まって、男の姿を、じっと見つめた。
武蔵坊と呼ばれた以上、この大法師は、叡山えいざん 西塔さいとう六方者ろっぽうもの弁慶べんけい にちがいあるまい。
「おう、おぬしは」
と、何か思い出したように、弁慶は眼もとで笑った。
「おれは、天城の四郎だ、去年、東獄とうごく で」
「うむ、東獄のひとつの獄屋ひとや に、幾日かをともに送ったな。・・・・どうだ、悪四郎、その後は」
「何が」
「その後も、盗賊を働いているのかと くのだ」
「ば、ばかなことを、人中ひとなか で」
あたりは人混みである。
悪四郎は、あわてて、
「冗談をいっては困る。貴様こそ、なにをしているのか」
「法師は法師だ。山へ帰りさえすれば、食うに困らぬ。どうだ、泥棒など止めて、おれに いて来ないか」
「人聞きの悪いことを」
「なんの、おぬしは、東獄の牢内で、天下にこわ い者を知らぬ大悪党とはおれだと、小悪党たちへ向かって、広言こうげん を払っていたではないか。何をキョトキョトするのだ、こら泥棒」
無数の眼が、悪四郎を見た。悪四郎は、たまらなくなって、何か、弁慶へいい捨てるやいな、人混みを縫って、消えてしまった。
これは、その朝、五条の辻あたりにあったちまたの一景物けいぶつ
六波羅も、西の総門とは反対な、東大路の方は、もっと、ひどい混雑を呈していた。
今し、法皇も還御かんぎょ とみえて、池殿の門に御車を立て、おんいで ましを待つ院の近習が、まばゆげに、朝陽の下に整列していた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next