〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (六) ──
御 産 の 巻

2013/07/25 (木) めい   げん (二)

「・・・・お。あれは、院のお姿か」
ふと見ると、そのとき、法皇には、御産所のすぐ間近まで来て、中宮の黒髪や、真白い御産褥ごさんじょく の端さえ見える錦帳きんちょう の前に御座ぎょざ をすえ、千手せんじゅ 陀羅尼だらに きょう 一巻を、高らかに み上げておられるのだった。
「あら、勿体もったい なや」
と、二位ノ尼も、法皇のしりえ にすわって、ともども、陀羅尼経をとなえた。またそれを見た護摩陣ごまじん の修験者や祈祷の千僧どもも、一せいに祈念を らし、今や不可思議な心理と光景が煙りたつ全屋ぜんおく をくるみ、それは繊金きりがね で描かれた浄土曼陀羅じょうどまんだら の図、そのままに見えた。
すると、とら ノ刻 (午前四時) を少しすぎたころ。
御産褥のわきの間から、つと起ちあがって来た中宮亮ちゅうぐうのすけ 重衡しげひら (徳子の兄) が、
「── ただいま、御産ごさん は平安に、御産平安のうちに」
緊張した声に、ふるえをかすらせ、四面へ向かって、なお一倍、声高らかに、二度ほど、
「皇子御誕生。── 皇子御誕生に候うぞ」
と、告げた。
「おう、おうっ。・・・・皇子とや」
「皇子とぞ」
法皇を初め、関白、諸大臣以下、宿直とのい の端から、修法の千僧まで、どよめくばかり ぎはやす中に、清盛は、二位ノ尼と手を取りあって、よろこび泣きに、泣いたという。
すぐ、産湯うぶゆ御式ぎょしき 。── 呱々ここ のおん声。
そして、御几帳みきちょう のあたりから白々と、玉をとくような湯気がゆるい渦をながしてくる。そのとき東の大廂を、ちかっと、旭日あさひ が染め、はね返してくるきら めきに、それが虹色にじいろ となって、御簾を煙らせた。
また、そのあいだには。
小松内府重盛が、すぐ鳴弦めいげん の式に立っていた。五位十人、六位十人の弓手が、天地四方へ向かって、つる を鳴らし、古式どおりに 「天をもっては父とし、地をもっては母とさだめ給うべし。おん命は、東方朔とうほうさく仙寿さんじゅ にあやからせ給い、御心には、天照大神入れかわらせ給え ──」 と、誦文じゅもん するのであった。
そのほか、御式の次第は、いちいち書きつくせない。
すぐ、おん乳人めのと の任命もある。
さきの右大将宗盛卿の北の方 ── と初めはうわさにのぼっていたが、この朝、発表された名は、平大納言時忠の北の方 “そつつぼね ” であった。
また、法皇には、ただちに、関白以下の諸大臣に詔して、
非常の大赦
を、行わしめた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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