〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part �U-�V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/21 (金) 九(く) 条(じょう) 兼(かね) 実(ざね) 日(にっ) 記(き) (一)

いつの場合も、どんな喧嘩(けんか) も、喧嘩に大した理由はない。あとになって、結果と犠牲に照らしても、やる理由があったと思える喧嘩はない。
猪熊(いのくま) の辻(つじ) の車争いも、そうだった。
車の内の、主君と主君とは、どっちも、あずかり知らないことだったのである。
主君の権勢をうしろに、従者と従者とが、日ごろの鬱憤(うっぷん) と、蔑視(べっし) の感情を、ぶちまけたのだ。所もあろうに、宮門の近くで、しかも白昼の大道で ──。
思うに、その日の暑熱なども、作用をなしたに違いない。終日の惰気と疲労に加え、常に吐け口のない卑屈を持つ奉公人心理も手伝って、常軌を逸したすてばちな言語や乱暴が、思いのほかな、大乱闘を招いてしまったものであろう。だが、南都と山門の額打論(がくうちろん) を口火として、清水寺の炎上があったり、また、院の六波羅攻めなどという風説が信じられたりなど、なんとなく、以後の世潮(せちょう) も、静かではない。
表面は穏やかでも、どこかに、人が乱兆を感じている。安んじきれない焦燥(しょうそう) をいだき、その焦燥が、ややもすると、殺伐(さつばつ) な事件を生む。
たとえば。
同月の二十二日にも、喧嘩があった。
しかも、場所は、後白河法皇の院中においてである。
中務大輔(なかつかさのたいふ) 経家と、周防守信章(のぶあき) とが、口論のあげく、一方が、相手の烏帽子(えぼし) を引きむしった。そこでたちまち、大格闘(かくとうし) となったが、院中の人びとが馳(は) せつけて、双方を引き分けたため、からくも、血を見ずに納まった。
事の起こりは、それよりも前に、上皇の御遊宴の席で、経家が過(あやま) って、太鼓の撥(ばち) を、信章の頭へ飛ばしたことがあり、それが、遺恨の種になっていたものだという。
じつに、くだらない喧嘩である。けれど、二人にとっての結果は重大だった。二人とも、放氏(ほうし) の罰 (除籍免職) をうけ、生涯、妻子にまで憂き目を見せてしまった。
喧嘩は野人下郎の間ばかりでなく、殿上の月卿雲客(げつけいうんかく) たちでも、どうかすると、手の早いのがいて、大いにやったらしい。
ちと、余談にわたるが、藤原行成(ふじわらゆきなり) と藤原実方(ふじわらさねかた) のやった喧嘩などは、世も、平安朝の盛りであり、時勢もひとがらもよかったせいか、喧嘩の仕方もなかなかいい。
場所はやはり宮中だった。
口論しているうちに、短気な実方が、行成の冠をつかみ取って、中庭へ投げ捨ててしまったのである。
すると、行成は、静かに、六位ノ蔵人を呼び、自分の冠を拾わせて、塵(ちり) を払い、それを頭にかぶり直してから、さて、ニコと笑って、実方の議論へ、ふたたび反駁(はんばく) してかかった。
時の一条天皇が、後年、行成を重くお用いになられたのは、この時の彼の沈着な容子(ようす) を、御簾(みす) の陰から御覧になっておられたことによるものと言われている。
世に、行成風(こうぜいふう) と称(たた) えられた行成(ゆきなり) のあの仮名文字(かなもじ) の優しさ流麗さは、何ぞ知らん、こういう内面の強さを持ったものなのである。
平家の世ごろとなっても、なお、仮名の名手、和歌の上手(じょうず) は、少なくはない。けれど、行成や佐理や貫之(つらゆき) のいた世代から見ると、公卿も品が落ちていた。殿上の人物は、寥々(りょうりょう) たるものになり、反対に、地下人(ちげびと) のうちから、また、ひろい山野の天地から、次代の人間は、育ちかけていた。
何しろ、変革期である。表面の合戦はなくても、どこか、一般人の血が、野性的に揺れ始めていたのは是非もない。理通はなくても、すぐ凶暴へ奔(はし) りやすい雰囲気(ふんいき) にくるまれていたものといえよう。── 摂政の随身と、資盛の家人との大乱闘は、その爆発であった。大炊御門(おおいのみかど) から猪熊(いのくま) あたりへかけての大路小路は、いつか野次馬(やじうま) の影で埋まってしまい、相互の負傷者やら、仲裁に駈けつけた宮門の人びとなどで、まるで戦場のような騒ぎのうちに、陽(ひ) も落ち、あたりも、薄暗くなっていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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