〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/13 (日) 夜 来 風 雨 急 (二)   

やっと、やや泣きじゃくりをおさ めた疳持かんもち の子のように、やがて清盛は、はじめ木工助にかいいだ かれて、やしき内の暗い寝室へ入って行った。
「さ。よう、おやす みなされませ。大殿おおどの のてまえは、朝となって、木工助が、よいようにしておきまするので。・・・・お案じのう」
まるで、わが子へするように、木工助は、木枕きまくら をそこへおいたり、ふすま をかぶせて、そしてまた、清盛の寝顔のそばへ、ひざまづいた。
「もう、もう・・・・先ほどのようなお悩みは、ふっつり、夢の中へ、忘れ果てておしまいなされい。たとえ、 まこと父御ててご が、たれであろうと、和子様だけは、まちがいなく、一個の ではおわさぬか。手も脚も、片輪かたわ じゃおざらぬ。こころを太々ふとぶと と、お持ちなされい。天地を父母と思いなされや。のう・・・・それで、よいではござりませぬかや」
「じじ。うるさいよ。・・・・もい ねやい。俺も、考えないで、眠るから」
「おお、さすがは、さすがは、それでじじも安堵あんど いたしましたわい。・・・・では」
木工助は、もういちど、彼の寝顔へ礼儀をして、あとへ居去いざ った。そして、室の外から、そろりととばり を垂れて、立ち去った。
── それから、どれぐらいな時間を、熟睡したことか。
何しろ、寝たとなれば、いつも、正体なしの、清盛だった。
「・・・・兄者人あにじゃびと 。・・・・兄者人」
たれかに、ゆり起こされて、清盛は、しぶいまぶた を、やっとあけた。小蔀こじとみ ざしでは、もうひる ちかいように思える。
弟の、経盛であった。
兄のずぼらと違って、公卿の子みたいに、神経質なその弟が、一そう深刻そうなまゆ を近寄せて、さっきから、起こしていたらしいのだ。
「ちょっと、来て下さい。兄者人のことで、また、父上と母上が」
「なに、俺のことで、どうしたって」
「けさほどから、いさかいが始まって、午のお食事も、そっちのけです。いつ果てるとも見えません」
「また、おふたりの夫婦喧嘩げんか か。・・・・なあんだ、珍しくもない」
清盛は、わざと、不逞ふてい な大あくびを見せながら、両手を、伸びるだけ突っ張って、いった。
ほっとけやい。めずらしくもない。俺は知らん」
「いけない、いけません兄者人。あなたのことがもと ですもの。下の小さい弟たちも、さっきから、お腹が減った減ったと、あのように、泣いてばかりいるし」
「木工助は」
「じじも、さきほど、呼びつけられ、なんだか、母上に、ぎゅうぎゅう、取っちめられている容子ようす ですよ」
「よしっ・・・・行ってやる」
いきなり、はね起きて、気の小さい弟の眼をあざけ りながら、清盛は、あご の先で。
「俺の、直垂ひたたれ をよこせ、直垂を」
「着ていらっしゃいますよ。御ふだん着は」
「あ。着たままで、寝ていたのか」
彼は腹帯から、夕べの遣い残りを取り出して、弟の顔のさきは、つきつけた。
「このぜに で、小さい弟たちへ、何か買って食わせてやれ。若党の平六でも走らせればよい」
「買い食いなどさせたら、あとで母上に、どんなに叱られるか知れません」
「かまわぬ。おれがさせるのだ」
「いくら、兄者人あにじゃびと の、お言葉でも」
「ばか、惣領そうりょう だぞ、この平太は。── おれのいいつけも、少しは聞けい。聞いても、いいんだぞ」
弟のひざへ、銭を投げて、清盛の足音は、どすん、どすん、縁を踏み渡って行った。くりや に近い井戸屋根のもと に立ち、汲み上げた水を、がぼがぼと飲む。そして、顔を洗い、その顔を、布直垂ぬのひたたれ のきたないそで で、こすりこすり、庭を斜めに歩いて行った。

※小蔀
明り取りなどのための小さな蔀窓。上下にかけはずし出来る格子づくりの小型の戸。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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