〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
静 御 前
九郎判官義経を慕う白拍子
2012/11/24 (土) 大峰の女人結界で永遠の別れ (一)
宿敵の平家が滅亡すると、兄弟の不仲は抜き差しならぬものになっていく。義経は生け捕りにした平
宗盛
(
むねもり
)
・
清宗
(
きよむね
)
父子を護送して鎌倉に向かうが、
腰越
(
こしごえ
)
で止められ、鎌倉入りを禁止される。義経は自らの無実と心情を切々と述べた 「腰越状」 を頼朝に書き送るものの、兄の気持を変えることは出来ず、やむなく京都へ引き返した。その途中、宗盛父子は近江
篠原
(
しのはら
)
で斬殺された。
義経は頼朝と対決の姿勢を固め、叔父行家と連携し、奥州の
秀衡
(
ひでひら
)
とも気脈を通じた。後白河院がそれを裏から
煽
(
あお
)
っていた。壇ノ浦で生け捕りにされた時忠は流罪を逃れようと、義経に二十三歳の娘を差し出している。院や朝廷の有力者の中にも娘を差し出す者があった。義経が
磯禅師
(
いそのぜんじ
)
という白拍子の娘
静御前
(
しずかごぜん
)
を最愛するようになったのもこの頃であった。
静御前は舞いにおいて 「日本一」 の
宣旨
(
せんじ
)
を得たという評判の白拍子で、都が大
旱魃
(
かんばつ
)
にあえいでいるとき、百人の白拍子を召して
神泉苑
(
しんせんえん
)
で舞を舞わせたところ、九十九人まで効験がなかったが、静御前が舞を舞うとたちまち黒雲が湧いて激しい雷雨になったという。このとき義経に見
初
(
そ
)
められたという。
後白河院と義経の連携に危機感を持った頼朝は、密かに刺客として
土佐坊昌俊
(
とさのぼうしょうしゅん
)
を京都に送った。昌俊は数十騎を引き連れ、熊野
参詣
(
さんけい
)
と
偽
(
いつわ
)
っていたが、その京都での不穏な動向をいち早く
六条
(
ろくじょう
)
堀川邸
(
ほりかわてい
)
の義経に
報
(
しら
)
せたのは静御前であった。これによって義経は危うく難を逃れた。義経暗殺に失敗した昌俊は
鞍馬
(
くらま
)
に逃れたが、
弁慶
(
べんけい
)
らに追われて生け捕りにされ、六条河原で首を斬られた。
その翌日、義経が後白河院に奏上していた頼朝追討の宣旨が下された。もはや
賽
(
さい
)
は投げられたのだ。しかし、畿内周辺ににも義経・行家の挙兵に呼応する武士は少なく、そればかりか頼朝が自ら先頭に立って義経追討の軍を起こしたのである。その軍勢が京都に迫った文治元年
(1185)
十一月三日、義経は二百騎ばかりを
率
(
ひき
)
いて都を脱出した。もはや西国に下って再起を期すしかない。このとき静御前も
狩装束
(
かりしょうぞく
)
姿で義経に従っている。他にも平
時忠
(
ときただ
)
の娘をはじめとする姫君や白拍子たち合わせて十人の女が義経と共に都を落ちて行った。
五日の夜、義経は
摂津
(
せっつ
)
の
大物浦
(
だいもつのうら
)
(尼崎市)
を船出して四国を目指したが、明石海峡を前にして急に
霰
(
あられ
)
まじりの強風が吹き荒れて船は離散し、義経一行は翌朝になって船出した地点に近い
住吉
(
すみよし
)
の浜に打ち揚げられた。そこで敵の襲撃を受けたために、大物浦まで船を移した義経は、敵の追及を逃れるために、引き連れていた女たちを都に帰し、残った家来たちも分散して身を隠させた。
義経は最愛の静御前だけは手放さず、
四天王寺
(
してんのうじ
)
に一夜を過ごした。そこで、義経は 「必ず一両日中に迎えをよこす」 と言い置いて、いずこかへ姿をくらました。すでに義経追討の院宣が下っていた。静御前はただ言われるままに待つしかなかったが、約束通り迎えの馬がやって来たので、それに乗って義経の待つ吉野に向かった。
著:高城 修三 発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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