『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第九章・ヴォルガ千里の流れを下る ==

そうしたモンゴル人の襲撃に備えて出来た国境の町サマラに着いた。 漁師の女達が、キャビヤールの塩漬を売りに来た。
140メートル以上もあって、シベリヤ鉄道の幹線がここを通るのに六分掛かるというヴォルガにかかった有名な大鉄橋の下をくぐる時、広瀬は眼を光らせた。
日中は暑かったけれど、日が暮れると急に肌寒くなるのも大陸特有の気候らしい。
サラトフの埠頭に着いたのは二十一日の朝七時だった。この辺りまで来ると、ヴォルガの河幅が五千米位になって、まるで海のようである。ヴォルガの渓谷の奥地で、氷河はちょうど海の水平線と同じ高さになる。
この町は十七世紀に作られたが、人口は十四万もある。ドイツ人が多かった。クレブナヤ広小路の博物館に入ってみると、有名な作家イワン・ツルゲーネフの遺品が色々並べられてあった。
十一時出発 ── ツァリチーンあたりから河はいく筋にも分かれてカスピ海にそそぎ、ヴォルガの三角州が大きく広がってきた。その一角にアストラハンの町が横たわっていた。アストラハン到着は、二十三日午前六時。

3500ヴェルストにわたって悠々とカスピ海に流れ落ちるヴォルガを、広瀬がわざわざ下ったのはロシヤの水路と水運の視察のためであった。
いったい道路が切り開かれる迄、交通も貿易もロシヤは水路に依存していた。その昔ヴァイキングは、貿易商を連れて、いたるところで河を渡って国見をした。外国の商人たちも客人として行を共にした。
ピョートル大帝の時になると、その商人たちはみんなこの河畔の町々に落ち着いた。ヨーロッパとの交通路もそれから開けた。世界貿易の大勢の中でロシヤの地位が上がってくると、商人の地位もまた上がった。ヴォルガを下ってみると、沿岸のいたるところに昔の商人の仕事の跡が歴々と残っている。
モスクワを中心とするロシヤの伝統的な商人は、ヨーロッパ人のそれとはまるで違う。ダッタン人の首木をはめられて、主として東洋と交易していた頃の面影が、伝統にも習俗にもそのまま残っている。いわば彼等は中世的な特色を持っていて、ロシヤ語 「クペーツ」 はドイツ語 「カウフマン」 に当るのだそうだ。
黒い上着の長いカフタンを着て、腰に帯びを絞め、袋のようなだぶだぶのズボンをはいている。頬髯を生やして髪の刈り方が一風変わっている。言葉使いもエチケットも特別で、食事の作法などはひどくやかましい。ペテルブルグに住んでいると、ドイツやスエーデンの影響を強く受けた現代風な商人を主として見ていたが、こうして、北から南に大河に沿うておりてゆくと、やっぱりペテルブルグは中心でなく、ロシヤ帝国の心臓はモスクワにあった。商人のあり方からも、それは強く実感された。

アストラハンの町では、馬車に乗って市内を一巡した。
今まで見慣れたロシヤ人やダッタン人も歩いていたが、アルメニヤ人、ペルシャ人の多いのには目を見張った。
昔の町は今の位置より十ヴェルストも北にあったが、そのダッタンの王国はチムールに破壊され、十六世紀の半ばにロシヤ領となり、ピョートル大帝が南方征服の本営を置き、造船所を設けたという歴史もあった。
少し休んで十一時には小蒸汽に乗って、浅い河口を下ること八時間。カスピ海に錨を下ろしているカフカズ・メルキュール会社の汽船に乗り換えた。
六月二十三日午後七時発。カスピ海は塩分をいっぱい含んで、船腹にも白く塩が固まっている。
沿岸はがいして平坦だが、西側にはカフカズの山脈が連亘して見える。時どき嵐が吹いて、船旅はあまり愉快でないというのが定評であったが、思ったほどのこともなかった。
船ははじめ十五時間ほど一気に進んだが、ペトロフスク港にしばたく留まった。七時間会場に浮んでデルベント港の沖合いに錨を投げたが、今度はすぐに出港して、南に下り、アプシェロン半島をまわると、もう夕暮れの海に石油の匂いがどこともなく匂って、海水も茶色になった。バクーの港は目の前に迫ってきた。 六月二十五日の夜七時だった。
町幅は狭く海に沿って広がっている。市場なぞは東洋風である。禿山に木が一本も生えていない。北風が激しい。六世紀に出来た町だというが、ロシヤ領になったのは十九世紀の初めからだ。

二十六日朝、裏海海軍の根拠地を見学した。たいした設備もなかった。町の南東二ヴェルスト半を電車に揺られてチョールヌゴーロド (黒い町) に赴く。 その東の海岸が白い町 (ベールイゴーロド) だ。
世界第一の石油産地といわれるだけに鑿井塔 (サクセイトウ) が林立している。空は油煙にまみれてくすぶっている。どろどろした緑色の液体を透明な石油に精製しているノーベル会社の構内を、馬車に乗って縦横に見学した。その盛大な規模と無尽蔵な物量とに、広瀬はどぎもを抜かれた。
バークの絵葉書を故郷に送る時 「上図ハ石油坑ノ火災ニシテ其坑脉内ナル石油ノ尽クル迄ハ燃エ続クモノニ有之候」 という説明をつけたのは、父にもこの実景を見せたかったし、みづから他日の心覚えにもしたかったからである。

長い船旅を共にしたロシヤ人の友は、持ち合わせたキルヒマンの 「哲学入門」 の扉に
 ヒロセタケオ氏ヘ
      ヨキ記念ノタメニ
           X・レヴィン ヨリ
      バーク   一八九九 ・六 ・十四
と書いて、贈った。日附は露暦であった。
彼の蔵書に中にみられるこの一冊の哲学書は、ヴォルガ河上で生まれた友情の形見であった。

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