『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十二章 ・ 日 本 の 騎 士 ==

時の経つのも、夜の更けるのも、みんな忘れて、静まり返った部屋の中に、時計の音だけが高く響いた。
「ずい分長く話し込んでしまいました。そろそろ引き上げましょうか。」
と、広瀬は挨拶して、自分の部屋に帰っていった。
口惜しいほど早く時間が経って行く。いよいよ出立の前日になった。
常盤は坂道の多いこの港町の裏手の丘に登って、細道づたいの散歩に広瀬をさそった。
二人は言葉少なに歩いていた。間もなく行く手にロシヤ人の墓地が見えてきた。トリデのようにいかめしい柵に守られている広々とした境内には、大小さまざまな墓石が並んでいる。
去年の秋ペテルブルグでみて歩いたアレクサンドル・ネフスキー墓地のようにゆかしくも立派でもない。
ロモノーソフやドストエーフスキーが葬られているわけでもないし、グリンカやチャイコフスキーが眠っているわけでもない。ここはたかの知れた田舎の墓地だ。
木立の下に茂る草むらの中に、名も知れぬ人々が眠っている。それがかえって妙に心をとらえた。
足もとには市街が夢のように浮ぶ。どこからともなく町の物音が聞こえてくる。少年の叫び声も混じっていた。
パラソルを鉄柵に立てかけて若い夫人は、南の空を眺めた。美しい夕暮れが海を覆うて、水面はキラキラと残照に輝いている。 その半島の中に黄金を含んでいると言われる金角湾の、まばゆい光である。
夕暮れを告げる鐘の音が、そのとき風に運ばれてきた。遠く足下に尖塔を夕陽にきらめかせているウスペンスキー寺院の鐘らしい。
常盤は夕空を眺めながら普段愛誦しているイギリスの詩を口ずさんだ。
The curfeu toils the kenell of parting day,
  The lowing herd winds slowly o're the lea,
    The ploughman homeward plods his weary way.
      And leaves the world to darkness and to me.
その四行詩のヘンに単調で、そのくせ思い深げな歌声は、デカソン女史のお話に聞いたイギリスの田舎の灰色の尖塔、きづたに覆われたカベのある寺の境内のつつましやかなお墓の群れを、彼女の心眼に思い浮ばせていた。
それとともに、心はゆるく沈んで、牧歌的心情が彼女の胸にゆるやかに揺れた。
今日もまた暮れてゆく、というやるせない気持ちが夢のように呼びだされてきた。
この時も過ぎてしまう、そして広瀬様とももうお別れ・・・・
英詩の一語一語を誦する彼女の脳裡には、十日間の楽しい数々の想い出が、うれしくかなしく浮んでいた。
そのグレイの英詩の調べが消え去るのをすぐ受けついで待っていたように、広瀬の日本語の低音がつづいた。
山々かすみ いりあいの
  鐘はなりつつ 野の牛は
    徐に歩み 帰り行く
      耕す人も うちつかれ
        ようやく去って 余ひとり
          たそがれ時に 残りけり。
矢田部尚今の、稚拙だがしかし実感のこもった訳詩の一節である。
常盤はハッとした。打てば響くとはこのことである。男同士の付き合いでも、こんなにぴったり呼吸が合うことはめったにあるまい。
彼女はあらためて、広瀬の教養と人柄のゆかしさを感じ、今まで知らなかった彼の文雅な一面に初めて触れた思いがした。
このとき、グレイの詩句を口ずさむ広瀬の心は、アレクサンドル・ネフスキー墓地を照らすペテルブルグの秋の薄い陽射しを浴びていた。
彼の心の眼は、墓石のそばに佇む褐色の眼のロシヤ少女を、さだかに見ていた。
あの忘れ難いひとときが、この夕暮れに再び立ちかえってきたのだろうか。
「アリアズナ」 という黄金の文字は、それほど彼の心臓の奥深く、はっきりと刻み込まれていたのである。
ようやく暮れ初める天地の中に、広瀬と常盤は、無言のままいつまでも立っていた。

その夜、常盤はほとんど眠れなかった。
なんという惜しい別れであろう。十日前までは、見た事もないその人が、今はもう骨肉の兄のようになった。時々ただの兄ではない、兄以上の人のようにさえ思えた。その人と別れねばならない。なんという悲しさ、なんという淋しさ、なんというやるせなさ・・・・。
その人の人柄は、知らず知らずの間に貿易事務館内の下僕にも、女中にも、わかるようになった。誰も彼も 「あの人は、ほんとうによい人ですね」 と噂していたということを聞いた。
無理もない。大男の軍人なのに、少しも粗野な振る舞いがない。女も及ばぬ多感な人柄でありながら、女々しく嫌味な所は一点もない。なんという立派なお方だろう。清いお方、直しくて、温かなお方。
しかも力があって、気概のあるほんとの男。軍人としてどんなに立派なのか、女の私にはよくわからないが、普段の人柄が、ほんとうに慕わしいお方なのだ。
これほど立派な男らしい男と十日間も一つ屋根の下に一緒に暮らせたことは、女として考え得られる幸福の極みを味わった、というものだろう。
私は、初めてほんとうに幸福を知った、と自分に言い聞かせながら、あなたも大きくなったら、ああいうお方になっておくれと、彼女は、まだ生まれない我が子にいい聞かせるともなくいい聞かせていた。二月前から、常盤は、ほのぼのと身ごもっていたのである。

三月十四日の朝は、あかるく明けた。何と言ってももう春だ。広瀬は川上夫妻に見送られて、午前九時ニコリスク行きの汽車に乗った。
折り良く川上が知り合いのスクォルツォヴ検事正が同車しており、川上が丁寧な紹介をしてくれたため、ずっとハルピンまで、何かと面倒を見てくれた。
のろいのろい汽車で、ただ鉄道が通じているとだけ言えるようなところだった。ハルピンまで725ヴェルスト。橇車よりももっと遅いくらいのスピードで走る。
貿易事務官の特別懇切な旅券の添え書きがものを言うて、なかなかうるさい所だというのに、満州通過中もほんの二、三回の検査で済んだ。
しかしもう到る所に監視の目が光っていた。
グロデーコヴォ駅で満州行きの切符をなかなか売らなかったのはとにかくとして、いよいよハルピンから南行する途中、ムクデンの食堂で食事中に、ロシヤの陸軍士官に訊問されたり、ダルニーまでおりてきたときは、旅順口鎮守府から派遣されたロシヤ海軍士官が、うるさくつきまとって行動を監視したりした。
三月十九日午後一時十五分、広瀬は旅順口に着いた。ハルピンから数えて816ヴェルストである。
すぐ極東総督エヴゲニー・アレクセーフ大将を官邸に訪うて敬意を表し、即夜、東清鉄道会社のシルカ号に乗って、翌朝ナガサキに向けて出帆した。
「武夫モ近頃ハ、メッキリエラクナッタ心地致居候。今迄ハ自腹ヲ切ッタ結果ニ拠ラザレバ何処ニ何時着クカ誰モ知ラザルモノガ、満州地方ニテハ到処トシテ此一貧士官ノ通交ヲ予知致居候始末ニ有之候」
と、その夜彼はそれとなく途中のありさまを川上に報告した。
その文章はハルピンで求めた絵ハガキにしたためた。 川上夫人が絵ハガキを蒐集しているので、途々それを送る約束をしていたからである。
右肩に番号を記した一連の絵ハガキが次々と夫人の許へ送られていった。
「端書ナドニテハ礼ニ於テ欠クル処アランモ御最愛ナル令夫人ガ御蒐集ノ画端書ニ馳加ハル急先鋒ノ第一矢トシテ先ツ旅順口ヨリ羽書ヲ飛ハス事、如斯ニ御座候也
明治三十五年三月十九日午后十一時/広瀬武夫拝」
という絵ハガキは、ウラジヴォストーク日本貿易事務館内、川上俊彦宛にしたためられ、二十九日になって川上夫妻の手におちた。
何でもないようでいながら、よく読むと、じつにハイカラなにおいがする。西洋のギャラントリーの精神が、 「水滸伝」 ふうな文章の中に見事に表現されている。いかにも広瀬さんらしい。あの方こそ新しく私たちが持つようになった日本の騎士というものでしょう、と夫妻はあらためて感じ入った。
つづいて緑の蓮の葉にうずめられたみ見るも爽やかな上野不忍池の絵ハガキが来た。
それには一切テニヲハを除いた金石文めいたものが、あの肩あがりの武骨な文字で記されていた。

「廿八日午后六時五十三分/無事/東京着/武夫」

END