そのころ、日本から届いた 「官報」 を何気なく開くと、この間ロシヤに来た上村が海軍少将に進級していた。よかったとかげながら喜んで先を見ると、財部も竹下も九月二十二日附で少佐に進級していた。
二人とも同級生であっても学業成績がごく良かったから、少尉に任官する時も、彼よりは半年早かった。それがまたここにも響いている。
広瀬の友達の中には、この進級の件について手紙をよこして、君は海上勤務が長くないから、大尉としての実役停年が足りないので、今度は進級名簿の中に出ていなかった。それさえ充分ならきっと選ばれたろうという評判もある、とわざわざ知らせてくれた人がいる。
その手紙を前にして、広瀬は感慨にふけった。
留学生に選ばれ、ここの駐在員になったときから、進級上損することは知っていた。べつだん気に病むほどのことはない。順番が来れば、少佐になるなぞラクなものだ。
徳が高いから早く進級するわけじゃない。俺はやっぱり持ち前の性質をそのまま真面目に勤務しよう。
部内にだって運動する奴はいる。利巧に立ち回る奴もいる。策略めいた手を打つ奴もいる。あれでも軍人かとつまはじきしたくなるような人間もいないわけじゃない。そんな奴が得するときもあるだろう。
でも俺には、そんなことはしたくても出来ぬ。この頃流行の才子ぶりは、俺の柄に合わんのだ。
俺はただ昔から深く信じてきた 「誠」 の一字を信じぬいて、それで万事に当たろうと思う。
うっそう者と言われようが、いずれほんとの勝利がどちらのもののなるかは神様だけがご存知だ・・・・・
そう考え直したらすぐさっぱりした気持ちになれて、広瀬はまた運動に出かけた。
柔道が出来ないから、元気の衰えるのを恐れて、ロシヤの冬のスポーツ、氷すべりを盛んにやった。
新来の加藤大尉が加わって、相棒が出来たから、彼はいよいよ熱を入れた。
ユサーポフ公園のスケート場から帰ると、部屋の中で、重さ1プードの鉄亜鈴を上下左右に振り回して健康を守ろうとした。
そのためか、相変わらず丈夫である。吹雪のとき外に出るが、風邪らしいものにも悩まされない。ペテルブルグ在住日本人の中では、頑健という点になると、第一位にたつと自らも信じていた・・・・
除夜の鐘が鳴ったとき、広瀬の感慨と心境はこんなものであった。
1900年1月上旬は、寒さがあまり厳しいので、スケートも思うように出来なかった。一週間程大寒が続き、零下三十度に下ったほどだ。
彼は室内に閉じこもって、方々に便りを出した。しばらくたつと日本から新年の賀状や手紙がたくさん舞い込んだ。
中にも二月の中旬受け取ったふるさとの便りには、ながく寝ていた弟吉夫がもう危篤に近いということを涙ながらに知らせてあった。今ごろはおそらくこの世の人ではあるまい、と考えるにつけて、われながら不幸続きの身の上だと思う。
日本を立つ時潔夫を失い、ロシヤについた年のおわりに祖母のために泣き、今はまた末弟を悼もうとしている。三千里外の異郷に暮らすことだけでもなにかと多感になりがちなのに、くわえてこの悲報をまた耳にしようとは・・・・・オデッサのとき以来覚悟はしていたけれど、やっぱり涙が限りなく流れた。追いかけるようにして父の便りが届いた。吉夫は一月十一日になくなったという通知だった。
もともと健康ではなかったが、このごろはひどく衰弱していて、看護する人々の目にも痛々しかったという。我が子は誰一人かわゆくない者はないが、なかにも吉夫は父が中年になってからもうけたのだし、とくに美しい男の子だけに、いわば父の秘蔵の子であった。
父はその成長を楽しみにしていたのに、もうまねいても帰らぬ人になってしまったのだ。父の胸中は察するに余りがある。
彼にしても異母弟だけに、ほんとに大事にした。学費は出してやる。信頼できる教育家は見つけてやる。いたれりつくせりの処置をほどこした。
「比叡」 で南航する直前も、東京に出てきたばかりの吉夫は、チフスにかかった。出発間際の準備に忙しかった広瀬は、東大病院に入れて、十分手当てさせた。たった一人でこまごました家事を処理したのは、この時が生まれてから初めてであった。尽くすべき手段を尽くした後に、彼はさっぱりした気持ちで海に浮んだのである。
1896年秋夫が病重くなって故郷へ戻った時は、こんこんと手紙で諭した。
「人ノ不運ニ会シ運命ヲ諦メザルモノハ必ズ天ヲ恨ミ人ヲ恨ミ己ヲ恨ムノ余リ自暴自棄ニ終ルベキ者ニ有る之候。コノ自暴自棄ナルモノハ自ラ墓ヲ堀リテ自ラ埋マルモノニ有之候。ヨクヨク堪考可有之候也」
とまず道理を説いた後、
「カカル境ニ雖モ汝ヲ陥レシニハ非ズ。天運ニヨリテ陥リタルモノナレバ自ラ諦メザル可ラズ。而シテ尚ホ天ヲ信シ命ヲ楽シテ他日雄飛ノ機ヲ失ハザルヲ期セザル可ラズ。希望ハ勇気ノ母ナリト知ラバ、此不運ニ際スルモ、ナホ前途春ノ如きキ希望ヲ抱キテ、自ラ奮ハザル可ラズ。痴愚婦女ノ如くク自暴自棄ニ終ラバ汝ハ男児ニ非ルナリ」
と激励し、
「柔道ノ教ニモ最上ノ手段ヲ尽セト。汝ハ今ノ境界ニ於テ最良ノ法ヲトラザル可カズと存候。当時病ヲ養フト称シ、己モ斯クアルヘシト信ゼバ汝ノ挙動心意ノ知ラズ知ラヌ間ニ驕リタル甘タルキニ流ルルアラン事ヲヨクヨクヨクヨクヨクヨク熟考スベキモノト存候」
と結んだ。
細かい衛生上の注意も十分に与えて、技術的な療法を列挙し、それを守らせるように強く戒めもした。兄が弟を労わる気持ちとしては余すところがなかった。
手紙を貰った吉夫の方でも感激した。出来るだけ兄の希望に添いたいといってきた。そんなに心を互いに通わせていただけに、この悲しい便りは、深くこたえた。
そのころは交際季節 (セゾン) なので、それまで広瀬はときどき招かれてはコヴァレフスキー少将の邸にあらわれていた。一月九日の舞踏会には、加藤大尉と連れだってやって来た。無心の令嬢達がしきりに踊りませんかと誘ったけれど、
「ザンネンナガラ、ダンスハマダヨクデキマセン」 とうやうやしくお詫びして、イギリス仕込みの加藤が快活に踊りまくるのをただ立って見ていた。夫人は密かに気の毒に思った。
ロシヤ海軍将校がたくさん招かれて、着飾った貴婦人達の手を取って踊っている。舞っている。胡蝶のような美しさと華やかさとが、部屋にあふれていた・・・・・それからも広瀬はちょくちょく顔を出していたのに、このごろ一週間ばかり姿を見せぬ。夫人は心配してどうなすっているかと手紙で聞いてきた。
二月末御詫びかたがた訪れて亡き弟のことを話すと、夫人はホロリと涙を落とした。それがひどく胸にこたえた。異郷でひんとの母に会ったような暖かさを感じた。
ロシヤ貴族でなくてはみられない福々しい夫人の頬にうかぶ微笑は、彼の悲しみをやわらげてくれた。もともと多感な広瀬には、このときからコヴァレフスキー家が急に身近なものになってきた。
少将は前からそうだったが、夫人はいっそう彼に細かく気を使ってくれるようになった。お茶の会とか晩餐会とかいうと、きっと呼んでくれた。そのためかロシヤ語の会話も急にのびてきたような気がする。いつだかも夫人は、このごろのヒロさんは、普通のお話なら少しもさしつかえなくお出来になります。去年の秋お見えになったころのような堅苦しさが有りませんもの、と褒めてくれた。それも嬉しかった。
この前後は、大変不順だった。二月十五、六日からとても我慢が出来ぬ寒さが襲った。寒暖計は氷点下二十三度を記録した。十度に下がると、道路にかがりを焚く。十五度以下に下がるとお寺でゴーンゴーンと鐘を鳴らし始める。十才以下の学童は通学禁止となる。帽子なしで外へ出ると、大人でも頭から風邪を引くと、みんなビクビクものである。
一、二日、三十度以下に下がった時などは、大騒ぎだった。ネヴァ河はもうすっかり凍って、鉄橋以外に通路が自然に開けた。夜になると、隅田川の三倍も近い大河をうずめる氷の上に、二列につけた電燈が幾百位幾千もずらりと並んで、キラキラと光る。まるで水晶宮のような壮観である。寒いことは言語道断だが、美しいことも類がなかった。
二月の下旬、コヴァレフスキー子爵家の人々は、少将をはじめ夫人と二人の令嬢とうち揃って遊びに来た。
広瀬のような独身者の所へ、夫人も子供も引連れて来訪するなどというのは、格式のやかましいペテルブルグの社交界では珍しいことだ。これは、広瀬の人柄をいつしか愛するようになった子爵夫妻が、広瀬の日常生活はどんなものか見たいと思う好奇心から、いわば向こうからせがんだ形であった。
彼は財布の許す限り心をこめた晩餐を並べてもてなした。夫妻も機嫌がよかったが、娘達ははしゃぎまわった。
もともと一つのテーブルに色々なものを並べて話しながら食事をして喜ぶのは、お客好きのロシヤ人の特徴である。招くのも好きだが、招かれるのもひどく喜ぶ。眼の色も髪の色もまるで忘れているから、実に明るい。
広瀬は普段出てこないようなロシヤ語も、意外にすらすら浮んできて、我ながら話に身が入ったのも楽しかった。なんだか日本の親類と付き合っているような気持ちになった。
彼は身の異郷にあることを忘れていた。部外の友人で少年の頃からの親友に宛てた手紙に中で、彼はこのへんの事情をこんなふうにもらしている。
「頑生ノ交際致候モノハ、至テ親切ニシテ、当地方稀ニ見ル所。頑生ヲ見ル、親戚一家ノモノニ異ラズ。頑生モ、身ノ異郷ニアルヲ忘レ申候。・・・・頑生ハ迚モ当地ノ青年紳士ノ如ク、婦人ニ接スル応接向キナドハ迚モ出来ザレ共、久シク交ハレバ交ハル程、隠シ立テセザル正直者、或ハ寧ロ馬鹿者ト思ハレ候者ニヤ、至テ心ヤスク交際致し呉候。一言ニシテ言ヘバ、剣呑ガラレザルコトニ有之候」
ペテルセン博士の一家も、これと同じ様な気持ちで広瀬の来訪を待った。彼は毎晩のようにロシヤ人の知り合いの家にまんべんなく顔を出した。なにかの公用で一週間ほど姿を見せぬと、心配して、博士は長男オスカルを使いによこして、安否を問わせることもあった。
ロシヤ語のかたわら、はじめたフランス語も少しは進歩した。そのはずである。彼はこの二つの外国語の下読みや復習はけっして怠らなかったから、新聞も辞書を片手に丁寧に読む。意外に時間をとられるうえ、日本人ロシヤ人の客の出入りがかなりあるから、彼もなかなか忙しかった。
かねて願い出ていた 「英仏独三国軍事見学」 の件は、許可されたという広報が三月はじめについた。
「身軍籍ニ在リテ、露国滞在等ノ身分ニ候ヘバコソ、此旅行モ許可セラルルナレト、至テ天恩ノ渥キニ感激罷在候。十分及ブ丈ノ視察ヲ終ヘ、帰露可致考ヘニ有之候。」
と、彼は故郷の父に報じた。
氷すべりも終わりだから、その代わりにはじめた自転車に乗って、彼はスヴォーリンの書店で最新の 「西ヨーロッパ旅行案内」 を求めた。いろいろなプランをたててはくずしたすえ、結局三月末に出立して、六月下旬に帰る予定を作った。ちょっとした旅行ではあるが、兎に角外国へ出るのであるから、知り合いには一応暇乞いをせねばならない。
コヴァレフスキー子爵邸に挨拶に行くと、西ヨーロッパを知っている夫人から色々注意を受けた。ドイツやフランスはそれほどでもありませんが、イギリスというところは、わるずるい国ですから、あそこへ行ったら充分お気をつけなさいよ。という意味にことである。まるで我が子を旅に送り出すかのように、なにくれとなくじゅんじゅんと細かい注意を与えた末、夫人はつと広瀬を抱いて、その額に熱い接吻を与えた。
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