〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/08/16 (土)  小倉百人一首 (みかきもり)

みかきもり のたく火の よる はもえ ひる は消えつつ ものをこそ思へ
(おお なか とみの よし のぶ )
宮中の御門を守る衛士らが
警備のかがりびを
夜な夜な焚く
あの火のように
わたしの思いは
夜になると燃えさかり
昼が火が消えるように
心も消え入るばかり
あの人への恋にこがれて

王朝の宮中の夜は、暗くなるにつれ、そこかしこで焚かれる篝火 (カガリビ) からはじまる。
楽しいこことも憂きことも、秘めやかな嬉しさも、妖しい呪いも、憎しみ怨みも、ともにこめて王朝の夜はくりひろげられる。
そして、夜っぴいて、警護のために焚かれる 「衛士」 の火は、人々の胸の思いを象徴するかのように、ぱちぱちと燃えて夜空を焦がすのである。
宮中に長く馴染んでいる人のも、はじめて宮中へ入った人にも、 「衛士の焚く火」 は印象的だったに違いない。文学にもいろいろ扱われ、清少納言も、はじめて宮仕えした日の夜、それを見たであろう。 「衛士のたく火」 の、詰所のようなところを 「火炬屋 (ヒタキヤ) 」 というが、清少納言ははじめての夜の、あくる日も中宮に召し出され、(中宮定子 (テイシ) は明朗でユーモア好きの聡明な方だったので、清少納言の飾りけない活発な精神をひとめで見抜かれ、いっぺんにお好きになられて、二人はめでたい友情を互いに抱きあったのである) 期待と不安と嬉しさに夢見ごこちで後宮の廊をいそぐ、それは雪の日であった。
「火炬屋の上に降り積みたるも、めずらしうをかし」
と彼女は 『枕草子』 に書いている。
この 「衛士」 は、みかきもり (御垣守) というように皇宮を守護するガードマンであるが、応募するわけではない。全国の軍団の兵士から優秀な者が選抜され、京へ集められ、衛門府 (エモンフ) の左右の衛士府 (エジフ) に配属されるのである。
和田英松氏の 『官職要解』 によると、三年間、宿衛を命じられたとあるから、三年交替であったのだろうか。公事の雑役、宮殿の清掃などという仕事もあったが、いちばんの重要な任務は、もちろん皇宮警護である。衛士は職務上、内裏の庭にも出入りするので、あるいは不思議なものを見聞きし、また、自身もその主人公となったかもしれない。
『更級日記』 には衛士にまつわる有名な伝説、 「竹芝 (タケシバ) 寺」 の物語が載せられている。
古い代の伝承である。あるとき東国の武蔵の国から召された衛士が御殿の庭を掃きつつ、ブツクサとくりことを言っていた。
「あーあ、なんでこんな辛い仕事を、来る日も来る日もすなきゃならねえんだ、郷里がなつかしいなあ、おれたちの国じゃ、ずらりーッと酒壺を並べ、瓢箪のひしゃくをその上にひっかけてある。あのひしゃく、南風吹けば北へなびき、北風吹けば南へなびき、西風吹けば東へ、東風吹けば西へ、ゆうらりゆらりとなびいて、酒壺はたっぷたっぷとこばれんばかり、そいつをきゅっと飲んで青空を見ながら眠っちまうんだ、あーあ、国へ帰りてえや、こんな仕事はいやになったい」
それを帝の皇女のたいそう大事に育てられた姫君が、ひとり御簾の奥で聞いていられた。
男の話が面白くて、男をそばに召して、
「それが見たいわ、私を連れていって見せて」
とおっしゃった。衛士は仰天して、勿体ない、恐れ多いことを、といったんは無論、ことわったが、重ねて仰せがあったので、これも前世の因縁かもしれんと思い、姫君を背負って出奔したのである。
天皇も皇后も動転されてあちこち捜されたが、このとき耳よりな情報が入った。
この原典の文句がいい。
「武蔵の国の衛士のをのこなむ、いと香ばしき物を首にひきかけて、飛ぶやうに逃げける」
姫君のたきしめていられた香が、あとへ残っただけで、さだかにその 「物」 は見えなかった。逃げる二人にのスピードが思われる。 「七日七夜といふに、武蔵の国に行き着きにけり」 とある。
さて二人を武蔵に国へ追っていった人々に、皇女は、
「これは私が命じたことです。私はこの男とこの国に住みたい。ここは住みよさそうな所に思えるの」
都では、天皇はこれを聞かれて、
「しょうがない、今更、都へ連れ帰ることもできまい」
と仰せられ、その男に武蔵野国をあずけられた。立派な屋敷を造って二人は幸福に暮らしたという、ロマンチックな物語である。
その邸のあとを寺にしたのが竹芝寺だという。ただ朝廷では、この先例に懲りて、後宮に近い火炬屋には女を詰めることにさせられたという。
さて、作者の大中臣能宣は、有名な奈良の八重桜の歌、百人一首61番 ( 「いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな」 ) の作者、伊勢大輔 (イセノタイフ) の祖父である。能宣の父・頼基 (ヨリモト) も、子・輔親 (スケチカ) も歌人として有名。代々神職の家で、伊勢大神宮の祭主であり、神祗大副 (ジンギダイフク) (神祗の祭典を司り、神官を管理する役所の次官) を兼ねていた。
天暦五年 (951) 、村上天皇の勅命を受け、 「梨壺」 (宮中の一御殿) におかれた和歌所の中心人物として、 『万葉集』 の訓点や、 『後撰集』 の撰集に当った。 「梨壺の五人」 の一人である。
この衛士の歌、能宣の作かどうか疑う説もあるが、しかし声調なだらかに力強く張った、いい歌だと思う。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ