〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/08/12 (火)  小倉百人一首 (八重むぐら)

 へ むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり
( ぎょう ほう )
むぐら生い繁る この邸のさびしさ
荒れ果てて いまは訪れる人もない
そんな庭にも
見よ ひそかに秋は訪れている
これは特別にむつかしい言葉も言い廻しもなく、平易な歌である。
この歌は 『拾遺集』 巻三の秋にある。詞書に、
「河原院 (カハラノイン) にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を人びとよみ侍りけるに」
とある。この詞書で、歌の風趣が深くなる。歌そのもには平凡であるが・・・・・。
河原院は14番 「みちのくの しのぶもぢずり・・・・」 の作者、源融 (ミナモトノトオル) が造営した別荘であることは前にいった。その善美は一世に鳴り響いたが、建物もさりながら、庭の造り方がすごい。日本で一番美しい風景はみちのくの松島湾の名所、塩竈 (シオガマ) だというので、 (今の宮城県塩竈市の千賀浦 (チガノウラ) ) その景色をそっくり庭にうつさせた。池にはいろいろの魚貝を放ち、毎日、尼崎 (アマガサキ) の浦から人夫数百人で海水を二十石ずつ汲ませ、塩竈を立てて塩焼くわざをさせたという。
都にいながらにして、みちのくの名所を現出させたのである。
ローマ貴族にまさるとも劣らぬ豪奢で劇的な贅沢ではないか。この邸は、六条坊門 (ロクジョウボウモン) の南、万里小路 (マデノコウジ) の東、鴨川の西に四町四方の地を占めていたという。
物の本によると、いまの五条通以南、魚棚 (ウオダナ) 通まで、柳馬場 (ヤナギノバンバ) 以東、賀茂川の河敷 (カワシキ) に至ると書かれているが、一説ではもっと南にも及んだといい、また現在の枳殼邸 (キコクテイ) を含むともいう。
源融は底抜けの財力と、美意識を有していたらしい。 『伊勢物語』 にも、この邸で菊を賞で、紅葉を愛して、貴顕紳士らだ集い、宴を楽しんだ話がのっている。
「夜ひと夜、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ」
業平もその宴にいて、こうよんだ。
「塩竈に いつか来にけむ 朝なぎに 釣する船は ここによらなむ」

河原院、という邸の名は伝説的にさえなった。ところが融の死後、河原院は奇怪な噂にまつわられるようになる。融の子、昇 (ノボル) が、この邸を宇多院に献じたので、しばしば宇多院はここで過ごされたが、ある夜半、衣 (キヌ) ずれの音がする。ごらんになると正装した公卿が控えていた。何者か、と問われると、
「この邸のあるじ、融でございます。ここは私の住家でございますのに、院がおわしますのは、恐縮ながら誠に以って迷惑至極」
「慮外なことを申すな」
と院は一喝された。
「私が人の家を奪うとでもいうのか。汝の子孫が献上したから住んでいるのだ。霊鬼のくせに理非もわきまえぬか」
すると融の幽霊は恐れ入ったか、かき消すように消えたという。
しかし宇多院の愛妃、褒子 (ホウシ) の御息所は、この邸ではよく物の怪におそわれたという。
やがて宇多院も薨じられる頃には、河原院は荒れに荒れていった。宏大なだけに、維持するのは大変だったろう。融の死後、七、八十年もたつと、この邸は寺になっていた。そうして融の曾孫の安法法師 (アンホウホウシ) という、坊さんで歌よみでもある人が住んでいた。
お寺になって坊さんが住んでいると、怪異もあらわれないものらしく、この頃の河原院は、やはり荒廃しているけれども、その荒廃ぶりに風情があった。安法の友人の歌よみたちがよく遊びに来たからである。恵慶法師は安法の親友であった。この恵慶は播磨の国分寺の僧で、仏典の講義などをした講師だったという。
このころは花山天皇 (在位984〜986) の時代だったから、河原院が建てられてからほぼ百年くらい経っていた。恵慶は当時有名な歌人だったらしく、勅撰集にもあまた歌を残しているが、私はこの人之の歌に魅力があるとは思えない。
さて、河原院の荒廃の風情を賞でた歌よみたちが死ぬと、この院はいよいよ荒れた。
王朝なかば、 『源氏物語』 の書かれるころには、オバケ屋敷の別名のようにさえなっていた。人々は 「河原院」 というと、おどろおどろしい怪異を連想したようである。紫式部は 「源氏物語」 の 「夕顔」 の巻で、夕顔が物の怪におそわれて急死する舞台に河原院を使っている (文中には 「なにがしの院」 としてある) 。木立は気味悪く繁り、池も水草も埋もれ、霧が流れて、簾をあげると袖もしめったという。手を叩けば山彦がかえるというからすごい。
『今昔物語』 の王朝末期時代になると、もう、鬼が跳梁 (チョウリョウ) する。東国の旅人夫婦が一夜の宿をここに求めたが、誰とも知らぬものが奥の戸を開け、妻をさらっていった。夫は驚いて戸を開けようとしたが、奥から鍵を閉められて開かない。近所の人々を集め、斧で戸をこわして、灯をともして奥へ入ると、これは何としたこと、妻は衣架 (イコウ) に打ちかけられ、外傷もないのに死んでいた。鬼に吸い殺されたのだという。
そののち、河原院は火災にかかり、残った一部は他に移されたり、賀茂川の川床になったりして、いつかそのあたりは原野にかえった。
一つの邸が何百年にわたり文学のモチーフになったというのは面白い。いまに本塩竈町の地名を残すというのも慕わしいが、私はまだ調べていないので、どのへんか知らない。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ