〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/08/09 (土)  小倉百人一首 (あはれとも)

あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべいきかな
(けん とく こう )
ぼくのことを
しみじみ思ってくれる人は
もう いやしない
君に捨てられたいまは
ぼくはこのまま なすすべもなく
ああ ただむなしく
こがれ死にに
消えてゆくのか

『拾遺集』 巻十五恋に、 「物いひ侍りける女の後につれなく侍りてさらにあはず侍りければ 一条摂政 (セッショウ) 」 として出ている。愛しあっていた女が、心がわりして冷たくなり、しまいには会ってもくれなくなった。おれはその男の傷心の歌である。
国文を読みなれている人はいいが、あまり古文に縁のない現代人が読むと、何とも分かりにくい歌で、その名前のひびきも戒名みたいで馴染みにくく、これまた、面白くない歌として、
< どうっちゅうこと、ない > 
と読み捨てられそうである。
この歌の 「思ほえで」 がまず、解釈しにくくて、現代人は面食らう。これは、思われないで、思い当たらないで、というような意味。 「身のいたづらに」 の 「いたづら」 は、悪ふざけやわるさではなく期待しただけのこともない、という状態。むだなこと。 「なりぬべきかな」 は、なりそうです、なってしまいそうです、これは運命的なものを認めている口吻である。
女に捨てられて、会ってももらえなくなって、
< やさしい言葉をかけてもらえなくなったこの身は、恋わずらいに死んでしまいそうだよ >
としょげ返って女の同情を引くという、これはたいそう女々しい、やさ男の歌である。
王朝の恋歌は大体に於いて、嫋嫋として女々しい歌が多いが、これはその中でも殊にきわだって、本音のままに弱味をさらけ出している。
男のプライドも面目もかなぐり捨てた純情一途の恋である。
── それは、のちに威勢一代に振るい 「世の中は我が御心にかなはぬ事なく」 といわれた、一条摂政・藤原伊尹 (コレタダ) の若い日のすがたであった。謙徳公というのは死後の謚 (オクリナ) である。
伊尹は短命だったが幸運の人であった。大臣の師輔 (モロスケ) を父に持ち、大貴族の家の御曹司として順調に出世していく。また 「をりをりの御和歌などめでたく侍れな」 と 『大鏡』 にあるように、歌人としても有名で、村上天皇の天暦 (テンリャク) 五年 (951) 「和歌所 (ワカドコロ) 」 の別当 (ベットウ) (長官) となって、 「梨壺 (ナシツボ) の五人」 の事業 ( 『万葉集』 の訓点、 『後撰集』 の撰進) らを監督する。
父や一門の長老亡き後伊尹は遂に大臣・摂政となる。帝 (円融 (エンユウ) ) の伯父、東宮 (トウグウ) (花山 (カザン) ) の祖父で天下の後見役である。摂政となって三年、これからというとき、天禄 (テンロク) 三年 (972) 、四十九歳の若さで死んでいる。当時でもこれは若死にで、
「おん年五十 (イソヂ) にだに足らで、失せ給へる可惜 (アタラ) しさ」 を、「世の人惜しみ奉りしか」 とある。 ( 『大鏡』 )
伊尹は若い時から美男で鳴らした男で、学才も衆にすぐれていた。何もかもあまりに多くの幸運を与えられたので、寿命だけが不足したのだろうと、当時の世間の人にいわれている。
豪宕 (ゴウトウ) な性格で、派手好きだった。
贅沢で華美なものが大好きで、それも成り金趣味ではなく、彼一流の美意識のよる嗜好を、主張したらしい。
伊尹の父・師輔も、位人臣を極めた人であったが、 『九条殿遺誡 (ユイカイ) 』 を子孫に残している。
王朝の貴族として、公私にわたる心得をのべたもので、親に幸をつくし、兄弟仲よく、君には忠貞の誠を捧げ、信心あつく、悪友と交わらず、殺生やバクチににめりこまず、口をつつしみ、怒りをおぼえても色に出すな、勉学に励み、立派な字が書けるようにせよ、暴飲暴食をするな、などと戒めている。これは右の心得に反する貴族が、当時たいそう多かったというあかしであろう。
その中で、師輔は、
「衣冠よりはじめて馬車に及び、有るに随ひて之を用ひよ。美麗を求むるなかれ」
と規制する。息子の伊尹の贅沢好みを案じたのかもしれない。その心配はすぐ事実となった。師輔は遺誡の中で薄葬 (ハクソウ) を命じたが、伊尹は 「そんなことできるもんか」 とばかり、世間なみに仰々しい葬儀を行ったのである。
世間の人は、親の遺言にそむいたから短命だったのだと噂したが、伊尹の美意識が強かったせいであろう、邸でパーティを催すとき、寝殿の庇の裏板や壁が少し黒ずんでいるのをみつけ、急に思いついて、陸奥紙 (ミチノクガミ) を一面に貼らせた。予想以上の効果をあげ、白く清げにみえたと 『大鏡』 にはある。 「思い寄るべき事かな」
── ふつうの人には考えつきも出来ないことだったという。この人の孫にあたる花山天皇も、なでしこを築地 (ツイジ) に咲かせたり、桜を門の外に植えさせたり、優美なセンスの持ち主だった。また、孫の一人の行成 (ユキナリ) は史上に残る書道家である。伊尹には芸術家の素質があったのであろう。
若い日の恋に突っ張りも気取りもなく、本音そのものが出ているのは、芸術家の率直奔放な性質からであろう。ただしこの歌は、用語も詠みぶりももはや現代的センスから遠く、現代人にはピンとこなくなってしまっている。  

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ