〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/31 (木)  小倉百人一首 (あひみての)

あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
(ごん ちゅう ごん あつ ただ )
やっと きみがぼくのものになった
ところがどうだ
よけい苦しみが増し
物思いが多くなった
不安 嫉妬 独占欲・・・・・
ぼくは新しい苦しみをさまざま知った
この苦しさに比べれば
きみを得たいとひたすら望んでいた
昔のぼくの物思いなんて
実に単純で底が浅かった

この作者は以前に紹介した、38番の右近の恋人である。
右近は敦盛忠の心変わりを怨じて、

「わすらるる 身をば思はず 誓ひてし 人のいのちの 惜しくもあるかな」
という歌を彼に贈っている。
しかし敦忠のこの歌は、右近にやったものかどうかは、不明。
これは 『拾遺集』 巻十二の恋に、 「題しらず」 として出ている。
すらりと読み下しているが、複雑な恋心を明晰に解剖して、まるでフランスの短編小説でも読むようである。
あるいは、右近との恋のはじめのころ、彼女に与えた歌かもしれない。
右のような解釈は、ふつうに行われているものであるが、私は 『文車日記 (フグルマニッキ) 』 で、もうひとひねりして考えてみた。
── それは、男性側にたって解釈してみたのである。
男は女と一夜をともにして、急に熱がさめてしまった。それまでは夢中だったのだが、いったん、モノにしてしまうと、なにやら憑きものがおちたような気になり、ちょいと白けてしまった。
「オレ、昔は単純だったなあ」
などと考えたりしている ── という、解釈である。しかしこれはかなり現代風に引き寄せ過ぎており、王朝はこいう真理で歌はよまない。
作者の敦忠は歌人としても音楽家としても有名だったが、三十八で死んだ。この一族はみな若死にである。父の左大臣時平 (トキヒラ) も三十九で死に、兄・保忠 (ヤスタダ) 、それに敦忠の姉、その夫の保明 (ヤスアキラ) 親王もみな、若くして死ぬ。三歳で東宮に立たれた親王の御子慶頼王 (ヨシヨリノミコ) も五歳で亡くなられる。
これらはみな、時平が、菅原道真を失脚させたせいだと世間には思われていた。道真は配所の筑紫で恨みをのんで死んだが、その恨みがこの一族にたたるのだと信じられていたようである。
「かくあさましき悪事を申し行ひ給ひし罪のより、この大臣 (オトド) (時平) の御末 (オンスエ) (ご子孫) はおはせぬなり」

と 『大鏡』 には書かれている。道真をいじめたというので、時平は日本庶民に長らく悪役として憎まれている ( 「菅原伝授手習鑑 (スガワラデンジュテナライカガミ) 」 などで有名) 
敦忠は自分でも短命を予知していたらしく、
「われは命短き族なり、必ず死なむず」
と妻にいったと 『大鏡』 にはある。妻は先の東宮、亡き保明親王の夫人の一人だった。若い敦忠は親王と、この夫人の恋の文使いをしていた。
親王が二十一のお若さで亡くなられた後、夫人は敦忠と再婚した。二人の仲は睦まじく、敦忠は妻を 「限りなく思ひながら」 ( 『大鏡』 ) 何と考えたのか、あるとき妻にこういった。
「ぼくの一族はみな短命だから、ぼくもきっと若死にすると思う。あなたはぼくの死後文範 (フミノリ) と結婚するだろうな」
「なんですって」
と妻は驚いた。文範は邸の家令 (カレイ) を勤め、またそのころ、播磨守でもあった。妻はあがらって、
「考えられませんわ、わたしが文範となんて」
「いや、まあ、まちがいはないね。ぼくの魂は天駈って見ているよ」
と自信ありげに敦忠はいった。彼の死後、その予言が真実になったと 『大鏡』 には書いてある。彼は人より鋭敏な感受性があって、人の見落とし、聞き洩らしたものをキャッチする感覚が発達していたのかもしれない。
ただ、彼は、時平の子ではないかという説もある。
『今昔物語』 の中でも有名なエピソード。
敦忠の母は在原棟梁 (アリハラノムネヤナ) の娘で、業平の孫にあたる。彼女はもと大納言国経 (クニツネ) の妻だった。国経は老人であったが、若く美しい妻を持っているのが自慢だった。好色な時平は関心を持ち、下心を秘めて国経に近づく。国経は時平の伯父に当る。伯父さん伯父さんと持ち上げて、国経の邸でご馳走になる。国経にしてみると甥とはいいながら大臣が、自分の邸で快く酔ってくれるのが嬉しくてならない。酔いのあげく、とんでもないことを口走ってしまう。
「引き出物は、私の妻じゃ、こんな老いぼれが、若い美しい妻を持っているのが自慢でござる。これを大臣への引き出物に進ぜよう」
時平は、得たりや応、と彼女の手を曳いて車へ連れ込み、すぐさま、わが邸へ伴ったのである。酔いがさめた国経の驚きと後悔と悲しみ。そのとき、国経夫人は懐妊していたといわれ、敦忠は、、だから真実は国経の子だともいわれる。
「その時平ですが、北野の天神サン (菅原道真) を苛めたほうは、みな、腹を立てますが、よその奥サンを連れ帰った話は悪いことには違いないが、男としては共感できま」
と熊八中年は、少しうらやましそうにいう。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ