〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/31 (木)  小倉百人一首 (契りきな)

ちぎ りきな かたみにそで を しぼりつつ すえまつ やま なみ さじとは
(清原きよはらの もと すけ )
おぼえているかい
約束したね ぼくたちは
涙で誓った
決して心変わりしないと・・・・・
末の松山を 波が越すような
そんなこと けっしてないって
契ったよね きみとぼく

「末の松山」 は陸奥の国の歌枕、はっきりしないが、宮城県多賀城の丘か。海辺にあるが、決して波はかぶらないという言い伝えから、男と女が心変わりしないと契るたとえにされ、もし不実があれば 「浪こゆる」 と表現された。
『古今集』 巻二十には、

「君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 浪もきこえなむ」
とあり、これが本歌である。
あなたを差し置いて、あたしは心変わりなんかしないわ。もしそんなことがあったら、あの末の松を波が越えてしまうでしょう。
これは民謡風だから、男からの歌ともいえるし、ローカルカラーを喜ばれた昔のハヤリ歌であろう。松山といわずに 「末の松」 とだけいう場合もある。どちらにしても、これは変わらぬ愛の契りを指す。王朝ではたいそう好んで使われた常套語である。海辺の松、という風情さえ美しいのに、その上を波が越えるということは決してあり得ない、そのように愛が変わらない、というたとえは雅やかでいい。
この歌は 『後拾遺集』 巻十四・恋に、
「心変り侍りける女に、人に代りて」
とあり、清原元輔は人に頼まれて代作してやったのである。
「契りなき」 とはじめに掲げてあるところは強いが、しかしそれは下の句へいくにつれて、やさしい愚痴に軟化しており、反撥を誘い出すような憤怒や恫喝や怨嗟はない。むしろ、再びその甘美を共有しようという、仄かな哀願の口調すらただよう。
これは元輔の性格からきているのであろう。
清原元輔は36番の作者の深養父 (フカヤフ) の孫で、清少納言の父、というのは前にも紹介した。908年生まれ990年没、八十二歳で肥後守 (ヒゴノカミ) 在任中に死んでいる。
歌人の家に生まれ、官吏としてはぱっとしなかったが、歌よみとして名をあげた。天暦五年 (851) 和歌所 (ワカドコロ) の寄人 (ヨリウド) となって、 『万葉集』 に訓点 (クンテン) をつける事業にたずさわる。また、梨壺 (ナシツボ) の五人のうちの一人でもあり、 『後撰集』 の撰者ともなった。
そのメンバーは大中臣能宣 (オオナカトミノヨシノブ) を中心に、源順 (ミナモトノシタゴウ) 、紀時文 (キノトキフミ) 、坂上望城 (サカノウエノモチキ) ら五人であった。国文学ではこれを 「梨壺の五人」 と呼んでいる。
性質はユーモラスでひょうきんで、才気にみち、明るい。清少納言は多分に、父のこの性質を受け継いでいる。清少納言は元輔のずいぶん晩年の子である。五十七、八の頃ではなかろうか。母はどうやら清少納言の物心つくころには亡くなっていたらしく、元輔は孫のような娘を溺愛して、六十六歳のとき周防守 (スオウノカミ) として赴任することになると、娘も連れて行った。清少納言の 『枕草子』 には男の噂も闊達に書かれているが、この開けっぴろげな異性への感覚は、男親の手で育てられたからではないか。
冗談好きな、明るい爺さん、教養はあるがそれがいやみにならず、人間を楽しく人生を陽気にするのに役立っている爺さん、それが清少納言の父親だったように思える。彼女は父親と仲がよかったに違いない、というのが私の想像である。そして物の見方や発想は、かなり父親に負うところが大きかったと思われる。私はそういう解釈で、清少納言を 『むかし・あけぼの』 という小説に書いた。
元輔は官位は遅々として進まなかったが、プロ歌人として、大貴族たちをパトロンに持ち、お邸出入りして、賀歌 (ガノウタ) や屏風歌 (ビョウブウタ) 、贈答歌 (ゾウトウカ) を献じた。 だから儀礼的な歌がその歌集 『元輔集』 には多いが、 『拾遺抄』 には、肥後守として下る元輔に、源満仲 (ミナモトノミツナカ) が送別のパーティを設けたとき、元輔がよんだという歌がある。
「いかばかり 思ふたむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き道をば」
元輔は七十九歳である。このたびは娘を伴っていない。清少納言はもう結婚していたらしい。
── < どんな気持ちでいるんだろうなあ、あのおトシで遠い所へ出かけるとは、 と君は思っているんじゃないかね > というような歌で、洒脱なよみぶりである。
満仲はこれをいけて、
< いや待つ身のほうがせつないよ、おれもトシだもの >
というような歌を返している。満仲は四歳下であるから、このとき七十五、しかし元輔は任地で没して再び都を見ることはできなかった。その知らせを聞いた老友の満仲は感無量であったろう。
末の松山の歌をもう一首紹介する。 『源氏物語』 の 「浮舟」 の巻、薫は愛人の浮舟が、自分を裏切って匂宮 (ニオウノミヤ) と通じていたことを知り、屈辱感と憤怒と愛に、はらわたが煮えくりかえる思いで、歌をやる。
「浪こゆる ころともしらず 末の松 待つらむとのみ 思ひけるかな」
── あなたが心変わりしているとは思いもよらず、私を待っているもの、とばかり思っていた。 ── しかもその手紙の末尾に、< 私を人の笑い者にして下さるな > とぴしりと書く。この歌にこもる、しんねりむっつりした深刻な憎悪とあてこすりは、元輔の歌とは全く雰囲気が違う。 ── それはまるで、紫式部と清少納言の気質の違いを見るようである。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ