〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/31 (木)  小倉百人一首 (恋すてふ)

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか
(壬生みぶの ただ )
ぼくが
恋に悩んでいるという噂は
早や 世間に散ってしまった
ぼくは あのひとを
人知れず
思い初めたばかりなのに・・・・

忠見の歌は、私見では兼盛の 「忍ぶれど・・・・」 よりも実感が強く打ち出され、それがしらべを説得力あるものにしている。
兼盛の歌は技巧が目立ち、しらべが流麗すぎる。恋の歌は破調があらまほしい、というのが私の持論である。忠見の歌には、どこか激越な気分がひそんでいる。それは絶望感にもつながっている。とうてい成らぬ恋、という状況も示唆されている。これは悲恋の歌である。
── といって、兼盛の歌もしりぞけがたい。
忠見か兼盛か。
どちらにヒイキするか、千年来の論争となっている。
壬生忠見は、百人一首30番の 「有明の つれなく見えし・・・・」 の作者、壬生忠岑の子。幼時から歌が巧かったが、家は貧しく、又父同様生涯微官で終わった。天徳二年 (958) 摂津大目 (セッツノオオサカン) となる。地方官の下級官吏である。
天徳四年の歌合せには、歌の堪能を以って勅命で召されたのであった。
忠見はこの名誉をどんなに喜んだことであろう。
彼は感激して、任地から 「田舎の装束のままにて、柿の小袴衣 (コバカギ) を今に持ちて肩に懸く」 と 『袋草子 (フクロゾウシ) 』 にあるような、田舎者の格好で上京し召しに応じてこの歌をよんだ。忠見は一世一代の光栄に十分こたえるだけの力作を詠進したといえよう。
さて、左右の歌の優劣を決めかねるまま、一座はいよいよエキサイトする。判者の実頼はついに 「天気 (テンキ) 」 をうかがった。
村上天皇も困られたことと思われる。どちらがよいとも仰せにならぬまま、ひそかに右方の 「忍ぶれど・・・・」 の歌を口ずさまれた。
帝のご内意は、双方の歌を口ずさんで、ゆっくり優劣を考えられるおつもりだったのかもしれぬが、右方の歌を詠じられた段階で、源高明 (タカアキ) は 「天気若シクハ右ニアルカ」 と判者に洩らし、判者そこで、 「右が勝ち」 と宣した。
もっとも判者自身は 「左ノ歌甚ダ好シ」 として、(持だな・・・・) 引き分けかと考えていたらしい。
しかし、ともあれ、兼盛の歌が勝ちと決まり、右方はどっと勝どきの音楽を奏する。 「盃酒、頻リニ巡リ、絃歌、断ユルコト無シ」 これほど楽しい夜はなかったという。
「歓楽ノ至リ、今夜ニ如カザルナリ」
君も臣も楽しんだ。
「群臣、快ク酔ヒ、雑興、禁ジ難シ」
そのうちにようやく、夜は白々と明け、帝は入御 (ニュウギョ) された。
さて、作者の歌人たちはその座には列していない。兼盛は衣冠正しく陣の座にいて、勝ち負けの知らせを待っていた。勝ったと聞くや、喜びを押さえ切れず、そのほかの勝負のことは聞きもしないで、拝舞 (ハイム) して退出した。
一方、忠見も、別のところで吉報を待っていた。 「恋すてふ」 は忠見の自信作であったから、勝ちを信じていたに違いない。
そこへ心外の知らせがきた。
『沙石集 (シャセキシュウ) 』 によると、そのとたん忠見は、
「あわと思ひて」
大きなショックを受け、 「胸ふたがりて」 食べものも喉に通らず、ついに 「不食の病」 になって死んでしまった。
この伝承のために二人の名と歌は、いつまでも世に残った。
田舎装束でかけつけて、歌人としての名誉に感激しつつ、渾身の力を込めて美しい歌をよみ、それが負けと知らされて落胆した忠見に、私はいまもヒイキにしている。
勝ちも負けも決めずに、引き分けとしてやればよかったのに、と思う。そこまで拘泥しないでも、という見方もあろうが、それが芸術のもつ業というものである。
「小説も紅白に分かれて、こんなんやったらどうでっしゃろ。たとえば芥川賞直木賞なんかも、紅白に分かれてのレース」
与太郎青年は無茶苦茶いう。
「審査員も紅白に分かれて大舌戦、それをテレビでうつしてもらう。こら、国民的行事になりまっせ、文壇だけの行事やない。今年は赤勝か、白勝か、賭けもできまっしゃん」
昭和のおん時の小説合わせ、とでもいうべきか。
それはともかく、俊成の 『古来風躰抄 (コライフウタイショウ) 』 にも二首ならべているが、定家も二首あわせて干渉すべきものとして、並べ採ったのであろう。定家が判者となっても、双方のどちらを勝ちともできず、引き分けであると思っていたのかもしれない。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ