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== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/30 (水)  小倉百人一首 (忍ぶれど)

忍ぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
(たいらの かね もり )
ぼくは 自分の思いを
じっと胸に 秘め隠してきたが
おのずと顔や雰囲気に出たのか
「君は恋してるんじゃないか
  物思わしげにみえるよ」 と
人にたずねられるほどになってしまった

子供のころ、百人一首のかるたをとっていて、ひそかに心ときめきするのは、 「恋」 というコトバが大っぴらに口にのぼせられることであった。
昭和十年代のなかばである。世間は軍国主義の嵐が吹きすさび、ますらおぶりが一世を風靡している時、百人一首だけは優美軟弱なたおやめぶりを主張できるのであった。
この歌なんか、よくわかって、じつに嬉しかったものだ。
平兼盛は光孝天皇の玄孫で臣籍に下って平氏を名乗った。九九〇年にかなりの老齢で没したらしい。十世紀後半の代表的歌人で三十六歌仙にも入っている。
王朝びとは若死にの印象があるが、なかには結構、長生きの人も多く、百人一首関係でいうと、藤原俊成 (シュンゼイ) の九十歳をトップに、清原元輔 (モトスケ) の八十三歳、陽成院 (ヨウゼイイン) の八十二歳、定家の八十歳、大中臣能宣 (オオナカトミノヨシノブ) の七十一歳、・・・・・戦乱や疫病をしのいで、したたかなものである。
この兼盛は、才女の赤染衛門 (アカゾメエモン) の実の父ではないかといわれている。赤染衛門の母は、はじめ兼盛の妻だったが、懐妊したまま別れて赤染時用 (トキモチ) と再婚した。そして生まれた娘が赤染衛門だといわれている、赤染衛門の歌才は、もしかしたら実父の兼盛ゆずりかもしれないが、事実かどうかはわからない。
しかし伝承や俗説は、意外に真実を伝えていることが多いのも、この頃ようやく、人々が気付きはじめた通りである。アカデミズム一辺倒で歴史を見ていると、どんどん真実から逸れるおそれもなしとしない。
この美しい恋の歌は、 『拾遺集』 巻十一恋に 「天暦 (テンリャク) の御時の歌合」 として出ている。
これは村上天皇の天徳 (テントク) 四年 (960) 三月三十日に内裏で催された歌合せである。
この時の歌合せは後世の模範と仰がれ、以後、歌合せはこのときの盛儀にのっとることになった。
また国文学史上から見ても、特筆すべき事件であって、 「天徳内裏歌合せ」 とも、村上帝をその統治年代の中の印象的な年号でよぶならわしから 「天暦の御時の歌合せ」 とも、いっている。
村上天皇は当代切ってのインテリで、芸術愛好者でいられ、ご自身でも典雅な歌をよまれる歌人である。しかも朝廷の実力も富も充実している時だったから、豪奢にして華麗なセレモニーを催すことができた。
当時の一流歌人が左右に別れて勝敗を争うのである。芸術作品をゲームにするというのは場違いのようであるが、しかし優劣を争いたくなるのは、人間の常である。朝野あげて文学的雰囲気の高まっている時であり、男も女も、貴きも賤しきも、歌に心を入れ、歌に魅入られた時代であった。
時は弥生のつごもり、陰暦では明日から夏である。春を惜しむ間もなく、もう藤が咲いていたろう。
場所は清涼殿 (セイリョウデン) 、天皇や女御がたがご臨席で百官や女房たちも居流れてこの世紀の歌合せを見守る。時に村上天皇は気鋭の三十五歳という御年である。
それはどんなに美々しき盛儀であったことか・
申の刻 (午後四時ごろ) 天皇が臨御、天上人 (デンジョウビト) がみな揃ううちに日が暮れ、灯がともされ、庭上に篝火 (カガリビ) があかわかとたかれる。左右に分かれた方人 (カトウド) の頭 (カシラ) には、天皇のお妃 (更衣) を頂くというのもなまめかしい。
題は 「霞・鶯・柳・桜・藤・暮春・・・・」 とはじまって 「恋」 に至るまで二十番、講師 (コウジ) が歌をよみあげ、判者 (ハンジャ) が、勝ち負け、あるいは引き分け (持 (ジ) ) を判定してゆく。この時の判者は藤原実頼 (サネヨリ) 、この人はことさらに歌人というのではないが、この時左大臣として一の人であり、六十一歳で、温和重厚な人となりで信望をあつめている。
さて、歌合せは次第に進み、あるいは左が勝ち、あるいは右が勝ち、ゲームはいよいよ白熱する。判定理由は、 「左歌の心ばへ、いとをかし」 とか、 「右歌、させることはなけれど、難は見えず」 または 「歌の品の同じほどなれば、持 (ジ) にぞ定め申す」 などとあって、判者の責任も大変であるが、いよいよ座は熱狂を加え、左右の方人たちの声もかしましい。
いよいよ最後の 「恋」 の部になった。恋の歌は五番勝負である。この時の出詠歌人は、藤原朝忠 (アサタダ) 大中臣能宣、壬生忠見 (ミブノタダミ) 源準 (シタゴウ) 、ら、女流歌人も中務 (ナカツカサ) 、本院侍従らすべて十二人、みな錚々たる一流歌人である。
さて、いよいよ大詰めの二十番 「恋」 。
兼盛の歌は右である。
左に配せられたのは壬生忠見の

「恋ひすてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」
であった。
どちらも珠玉のような秀歌である。
左右の歌が披講されたとき、人々はどよめいたことであろ。
勝負のあいだに酒や肴がめぐったというから、感興はいよいよたのしくたかまっていたであろう。
兼盛か忠見か。どちらも佳品で容易に軍配を上げられない。判者の実頼も困ってしまった。天皇に申し上げるよう、
「左右ノ歌、伴ニ以ツテ優ナリ。勝劣ヲ定メ申スコト能ハズ」
天皇は仰せられた。
「各々歎美スベシ。タダシ、猶、之ヲ定メ申スベシ」
実頼は困って、大納言の源高明 (タカアキラ) の意見を求める。高明も
「お任せします」 と頭を下げるのみである。
そのあいだ、左と右の方人は互いにわが方の歌を詠みあげ、示威するのであった。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ