〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/29 (火)  小倉百人一首 (浅茅生の)

あさ の 小野のしの はら しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
(さん ひとし )
丈ひくいチガヤの野に
篠竹は生い繁る
ああその 荒涼たる風景よ
わが心象風土そのままに ───
しのだけの しのびこらえているけれど
包みかねてあふれる恋心
なぜこうまで ぼくは
あのひとが恋しいのか

『後撰集』 巻九・恋に、 「人にいかはしける」 として出ている。 「人」 は女。
「浅茅生の 小野の篠原」 は、 「しのぶ」 をいいたいための序であって、 「しの」 という言葉が必要なところから持ち出されたのであるが、何となく広漠の原野が想像され、荒野に佇 (タ) つ心細さと、忍ぶ恋の辛さが貼りついて、中々いいムードである。
この歌は 『古今集』 巻十一の恋にある歌、

「浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや いふ人なしに」
                                (読み人知らず)

から取られている、というのが大方の定説である。
< 私があの人を恋していることを、あの人は知ってくれているのだろうか、いや、知らないだろうなあ、あの人に告げ知らせてくれる人はいないんだもの >
というような意味だが、かなり古い歌らしく、万葉調の味がある。等はそれをうまく、王朝風な言いまわしにすげかえて成功している。
小野の篠原、というのは、特定の場所ではなく、 「小」 は接頭語である。王朝の昔は、ちょっと都を出はずれると (いやどうかすると都のうちでさえも) 浅茅の野や、篠原を目にすることが多かったのであろう。
この浅茅というのは古典によく出てくる。 『古事記』 の昔から、よく歌にうたわれているので、国文好きの方にはお馴染みの名詞であろう。上田秋成の 『雨月物語』 にも 「浅茅が宿」 という佳品がある。秋成のイメージにある 「浅茅が宿」 はこんな風である。

「簀垣 (スガキ) 朽ち頽 (クズ) れたる間 (ヒマ) より、荻 (オギ) すすき高く生 (オ) ひ出でて、朝霧うちこぼるるに、袖 (ソデ) 湿 (ヒ) じてしぼるばかりなり。壁には蔦葛延ひかかり、庭は葎 (ムグラ) に埋れて、秋ならねども野らなる宿なりけり」
『源氏物語』 で浅茅がさかんに出てくるのは、これはもう、いうまでもなく、常陸宮 (ヒタチノミヤ) の姫君、末摘花 (スエツムハナ) の邸である。
「浅茅は庭の面 (オモ) もみえず、しげき蓬 (ヨモギ) は軒をあらそひて生ひのぼる」 というような荒れた邸に姫君は心変わりもせず住んでいるのであった。 この浅茅の 「浅」 は、丈が低いとか、まばらに生えている、という意味で、ほんとうは茅 (チ) という。いまチガヤというが、これさえ、町者 (マチモノ) は目にすることが少ない。私は子供の頃、学校の遠足で野っ原へいき、そのつぼみを抜いて噛んだ思い出がある。町育ちの子供たちに、誰かが教えたのであろう。かすかな甘味があったが、それを 「つばな」 といい、 『万葉集』 のころから食べられていたらしい。巻八に、紀女郎 (キノイラツメ) の歌がある。
「戯奴 (ワケ) がため 吾手もすまに 春の野に 抜ける茅花 (ツバナ) ぞ 食して肥えませ」 (巻八・一四六〇)
あなたのためにあたし、手をかいがいしく動かして春の野でつばなを抜いたのよ、さあ、これを召し上がってもっとお太りになってよ。
この歌を贈られた大伴家持は、同じくたわむれてこう返している。
「吾が君に 戯奴 (ワケ) はふらし 給 (タバ) りたる 茅花を喫 (ハ) めど いや痩 (ヤ) せに痩す」 (巻八・一四六四)
ぼくはきみに恋しているらしいぜ、もらったつばなを食べたが、物思いにいよいよ痩せるばかりさ。
万葉人は冗談好きなので、あるいは家持という人は、恰幅のいい、ほどよきほどに太り肉 (ジシ) の男だったかもしれない。
ところで国文好きの人は、古典にうたわれる植物についての知識はほしいところだが、私が重宝している本の一つに 『野草図鑑』 がある。保育社刊、長田武正氏著、長田喜美子氏の写真で全八巻、一冊が千二百円だから、一般人にも学生にも、手の出ぬという高価な本ではないが、チャガはこの本の三巻、 「すすきの巻」 に出ていて、私もこのシリーズを虎の巻にしている。カラーな写真も美しくて、植物に無関心な人も、身近の野草に次第に関心を持つようになるだろう。私はこの等の歌が好きなので、浅茅に興味を持つが、右の図鑑も、ついでに皆さんにご紹介する次第。
作者の源等は、どの本でも二、三行で片付けられている影の薄い人である。嵯峨天皇の曾孫、天暦 (テンリャク) 元年 (847) に参議となり、四年後に死ぬ。伝記は不明。 『後撰集』 に三首残るのみで、歌人としては無名に近い。少なくとも、百人一首を王朝詞華集とするならば、源等よりもっとほかに有名歌人はたくさんあり、採れるべき名歌佳什 (カジュウ) も少なくない。
「名誉ノ人、秀逸ノ詠、皆コレヲ漏ス。用捨 (ヨウシャ) 心ニ在リ」
と 『百人秀歌』 の奥書 (オクガキ) に定家が書く通りである。
そのナゾに挑戦していられるには、やはり現在のところ織田正吉氏しか、いられない。氏の百人一首復元図では ( 『絢爛たる暗号』 ) 、39番の等の歌は40番と100番にかこまれている。
40番は、
「忍ぶれど 色にいでにかり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」
100番は、
「百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある むかしなりけり」
── 言葉のチェーンは三首互いにからみ合い連なり合う。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ