〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/28 (月)  小倉百人一首 (しらつゆに)

しらつゆに 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
(文屋ぶんやの あさ やす )
秋の野の草むらに
いちめんの白露
風がしきりに吹きわたると
ばらばらとこぼれ散る
あ あ 玉が散る 水晶の玉が
糸に通していない水晶の玉が
あ あ こぼれ散る
風の吹くたびに・・・・・
清麗な歌である。 『後撰集』 秋に、 「延喜の御時、歌めしければ」 とある。
身に泌む秋気も感じられ、野原いちめんの露の美しさに呆然としている作者の心に、私たちの心も寄り添う。
安東次男氏はこの歌について、
「野の露よりはむしろ水晶の玉に対する執着があって生まれたような歌」
とされ、
「その作者は日ごろ女たちの服飾のことに口を出すか、緒に貫いた玉を自らも手草 (タグサ) にするか、そのあたりの手触りの実感をいる男でなければなるまい」
と評釈していられるのは鋭いご指摘というべきであろう。
日本民族は、西洋人ほど宝石に執着しないといわれるが、美しい自然に敏感な日本人が玉を賞玩しないはずはなく、結構、アクセサリーも好きで、 『古事記』 の昔から、宝石に目が眩んで身の破滅を招いた男の話もよく出てくる。 『万葉集』 には真珠がうたわれることも多い。
こも朝康の歌の 「玉」 を、真珠とする訳もあるが、白露の感じからして、作者は水晶に見立てたのではないだろうか。水晶も日本人に好まれた玉で、王朝の世に閑院 (カンイン) の左大将と呼ばれた藤原朝光 (フジワラノアサテル) 、この人は人気のある伊達男であったが、胡?(ヤナグイ) (矢を入れて背中に負うもの) の矢筈 (ヤハズ) を水晶で作った。さる行幸の折り、朝日が水晶に輝いて、それは美しかった、という。
朝康はひそかに、水晶に愛着する男であったのかも知れない。
あるいは、野の露にことさら、心ひかれる詩人であったのか。それも露を人の命のはかなさにたとえる、というような王朝末期の無常感とは関係なく、ただ虚心に露の美しさを楽しんだのであろう。
『古今集』 には、彼のもう一つ別の白露の歌がある。

「秋の野に おく白露は 玉なれや つらぬきかくる 蜘蛛の糸すぢ」

── 白露を、蜘蛛の糸で貫いた水晶に見立てている。ここでは、静止した露の玉の美しさに目をとめ、さきの歌ではこぼれ散る、動きのある露の玉を描いている。
『古今集』 のは 「是貞親王 (コレサダノミコ) の家の歌合せによめる」 という詞書。 「百人一首」 の歌は 『新撰万葉集』 に、 「寛平御時 (カンピョウノオホントキ) 后宮 (キサイノミヤ) の歌合の歌」 とあり、混乱がみられる。
どちらにしろ、制作年代としては宇多天皇の寛平初年のころ (888〜893?) に成った作品らしい。
清らかな歌で、中々いい。定家も、この歌が好きだったようである。
白露を玉と見立てる趣向は、これはもう、この時代には、いやというほどあって、類型的な発想であるが、朝康のように美しいものは少ない。
すぐ思い出されるのに僧正遍昭 (ソウジョウヘンジョウ)
「蓮葉 (ハチスバ) の にごりにしまぬ 心もて なにかは露を 玉とあざむく」
ちょっと理におちた嫌いはあるが、蓮の葉の上の、ころころところがる露の玉をよんでいかにも涼しげでいい。 『古今集』 巻三・夏にある。
秋の露としては、詠み人知らずの歌、
「萩の露 玉に貫かぬと とれば消 (ケ) ぬ よし見む人は 枝ながら見よ」
ごつごつした古風なよみぶりで、作者を一説に平城1 (ヘイゼイ) 天皇としている。そこへくるとやっぱり、僧正遍昭はスマートで身が軽い。
彼には、春の露の歌もある。
「あさみどり 糸よりかけて 白露を 玉にも貫ける 春の柳か」
これは西寺 (サイジ) のほとりの柳をよんだという。いま見る京のお寺はしぶくくすんだ色であるが、できたての王朝初期の頃は、原色が鮮やかであったろう。街路樹の柳の浅みどりに光る露の玉、これも美しい。
『源氏物語』 にも露の歌は多いが、紫の上が死ぬ 「御法 (ミノリ) 」 の巻、紫の上は死を前にして、
「置くと見る ほどぞはかなき ともすれば 風に乱るる 萩のうは露」
養女の中宮は泣きながら答えられる。露のようなはかなさは、みな同じですわ。
秋風に しばしとまらぬ 露の世を たれか草葉の 上とのみ見む」

そうして紫の上は 「まことに消えゆく露のここちして」 「消え果てたまひぬ」
こういうさまざまの露の歌を見たあとで、やっぱり朝康のこぼれおちる水晶の露はかくべつの風趣だと思うのである。
朝康の生涯はまだ不明である。父の康秀と同じく微官で終わったらしいが、白露の歌で長い命を得た。
なお、この歌の 「吹きしく」 は、 「吹き頻 (シ) く」 で、しきりに吹くという意味。
朝康は九世紀後半から十世紀初頭に生きた人のようである。康秀の 「吹くからに」 の歌 (22番) がもし、朝康の歌だとすると、この人だけは百人一首に二首採られていることになる。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ