とある。
大和の長谷寺の十一面観音サンは、平安時代の人々から熱い信仰を寄せられた。 『源氏物語」でも、玉鬘 (タマカズラ)
の姫はここへ徒歩でお詣りし、知るべの女房とめぐりあい、運が開けている。霊験たちまち、あらたかだったわけである。
『枕草子』 にも初瀬へまいった記事がある。清少納言は椿市 (ツバイチ)
の粗末な宿に泊まったというが、貫之は、お寺の近くの知人の家に泊めてもらったものらしい。参詣のたびに泊まったというから、心安い人の家であろう。
「それは男ですか、女ですか」
と熊八中年は聞く。
昔の本には、それがどっちとも書いていないので困る。昔の人は、いちいち男とか女とか書かなくても、ちゃあんとわかるような、共通の雰囲気を楽しんだらしい。しかしそれは現代の私たちには分からない。とにかく貫之はその
「人」 の家へいつも泊めてもらっていた。ところがしばらくそこへ泊まらないで、久しぶりに行ってみると、その
「人」 は、 < この家は昔に変らず、ちゃんとございますのに > といったものだから、貫之はそこに立っている梅の花を折って、こう詠んだ、というのである。
人はいさ、の 「いさ」 は打消しである。かるたの読み手には折々 「いざ」 と濁って読み上げる人がいるが、これはまちがい。
「わかった、 < 人 > は女ですな」
熊八中年は、ぽんと膝を叩き、
「男やったら、そんな皮肉をいいまへん。女は貫之の恋人であった」
「観音サンにお詣りするたびに泊まっていたんですね。それとも女の家に泊まるのが目的で、観音はつけたしだったのか」
「どっちにしても貫之はんにしてみると、お詣りもでき、恋人とも逢えるという一挙両得の状態であった、と。それがしばらく足が遠のく、別の観音と別の泊まり口ができたのかもしれまへん。この時代もほかに観音サンはありまっしゃろ」
「石山寺とか、壺坂とか、ね」
「それそれ、そっちへ浮気してた」
熊八中年は見てきたようなことをいうから困るのだ。
「久しぶりに貫之はんが初瀬へ行ってみると、女は、 「家はちゃんとこうしてあるのに、ずいぶんお見限りね」
と・・・・」
「皮肉をいってあてこする」
「皮肉やない、あてこするなんて感じではない、憎からぬ男に可愛く拗ねてみせる」
熊八中年にかかると、女はみな可愛いのである。
「そういわれて貫之は嬉しい。貫之もケンカ別れしたわけやない。憎からぬ女に拗ねられると可愛い。そこでやっぱり、ユーモアで返す。
── さあてね、あんたの気持ちはどうですかな、もう心変わりしてはるのと違いますか。それに比べて、梅の花は昔のままええ匂いですね、
と、。これはオトナの男女の応酬 (ヤリトリ) で、よろしいなあ、若いもんではこういうふうにはいかない。貫之も女も、中年ですなあ。酸いも甘いもかみ分けてる。梅の花に、女の残んの色香をちょっとひっかけている所も、手馴れてます。この貫之はんはプレイボーイやったんと違いますか」
さあ、ねえ。
そのところは分らない。紀貫之、 『古今集』 の撰者のチーフ、プロ歌人として平安時代の第一人者 、 『土佐日記』
の作者、そうして 『古今集』 序で見られるように批評家としても一流の人、というのは私のまずしい知識の中にありますが、どうだろ、プレイボーイだったかどうか、何しろ彼の歌は、真情流露という私小説風な歌よりも、屏風なんかに書くのにつくられた歌が多いんだもん。
ちょうど裾模様の着物風というか、壁画風というか、大都会に駅のコンコースかなんかにその都市や国にちなんだモチーフの一大壁画がある、そんなんに似ていて、彼の歌は公的な場が多い。映え立って晴れがましい、おめでたい、美しい、人の心をハレバレさせる、そんな歌が彼は巧い人だった。それによって貫之は一千年の間、歌聖といわれてきた。
しかしプレイボーイとはどこにも書いてありませんな。 『土佐日記』 を読むと、子煩悩だったということは分るが。
例によって金田元彦先生のお説をかりると、貫之は内教坊 (ナイキョウボウ)
(朝廷の中に設けられた舞踏音楽研究所。百五十人くらいの妓女が修行していて、いわば国立の宝塚みたいな所)
の妓女を母とし、その中で育ったらしいという。阿古久曾 (アコクソ)
(アコチャン、というような意味) と呼ばれていたというから、音楽的情操も幼時に養われたのであろう。彼の歌にリズムがあるのはそのせいかもしれない。プレイボーイでなくても女性真理洞察家になったのは、その出自
(シュツジ) のせいか。
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