〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/25 (金)  小倉百人一首 (人はいさ)

人はいさ 心も知らず ふるさとは  花ぞ昔の 香ににほいける
(きの つら ゆき )
あなたは さあね
どんなお心かわかりませんが
この昔なじみのふるさと
そこに咲く花は
昔に変わらぬよい匂いで
私を迎えてくれますねえ

『古今集』 巻一・春の上にある。ちょっと長い詞書が会って、それを読むとこの歌の作られた事情がわかる。

「はつせにまうづるごとに、宿りける人の家に、ひさしくやどらで、程へて後にいたりければ、かの家のあるじ、かくさだかになんやどりはあると、いひいだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる」

とある。
大和の長谷寺の十一面観音サンは、平安時代の人々から熱い信仰を寄せられた。 『源氏物語」でも、玉鬘 (タマカズラ) の姫はここへ徒歩でお詣りし、知るべの女房とめぐりあい、運が開けている。霊験たちまち、あらたかだったわけである。
『枕草子』 にも初瀬へまいった記事がある。清少納言は椿市 (ツバイチ) の粗末な宿に泊まったというが、貫之は、お寺の近くの知人の家に泊めてもらったものらしい。参詣のたびに泊まったというから、心安い人の家であろう。
「それは男ですか、女ですか」
と熊八中年は聞く。
昔の本には、それがどっちとも書いていないので困る。昔の人は、いちいち男とか女とか書かなくても、ちゃあんとわかるような、共通の雰囲気を楽しんだらしい。しかしそれは現代の私たちには分からない。とにかく貫之はその 「人」 の家へいつも泊めてもらっていた。ところがしばらくそこへ泊まらないで、久しぶりに行ってみると、その 「人」 は、 < この家は昔に変らず、ちゃんとございますのに > といったものだから、貫之はそこに立っている梅の花を折って、こう詠んだ、というのである。
人はいさ、の 「いさ」 は打消しである。かるたの読み手には折々 「いざ」 と濁って読み上げる人がいるが、これはまちがい。
「わかった、 < 人 > は女ですな」
熊八中年は、ぽんと膝を叩き、
「男やったら、そんな皮肉をいいまへん。女は貫之の恋人であった」
「観音サンにお詣りするたびに泊まっていたんですね。それとも女の家に泊まるのが目的で、観音はつけたしだったのか」
「どっちにしても貫之はんにしてみると、お詣りもでき、恋人とも逢えるという一挙両得の状態であった、と。それがしばらく足が遠のく、別の観音と別の泊まり口ができたのかもしれまへん。この時代もほかに観音サンはありまっしゃろ」
「石山寺とか、壺坂とか、ね」
「それそれ、そっちへ浮気してた」
熊八中年は見てきたようなことをいうから困るのだ。
「久しぶりに貫之はんが初瀬へ行ってみると、女は、 「家はちゃんとこうしてあるのに、ずいぶんお見限りね」 と・・・・」
「皮肉をいってあてこする」
「皮肉やない、あてこするなんて感じではない、憎からぬ男に可愛く拗ねてみせる」
熊八中年にかかると、女はみな可愛いのである。
「そういわれて貫之は嬉しい。貫之もケンカ別れしたわけやない。憎からぬ女に拗ねられると可愛い。そこでやっぱり、ユーモアで返す。
── さあてね、あんたの気持ちはどうですかな、もう心変わりしてはるのと違いますか。それに比べて、梅の花は昔のままええ匂いですね、
と、。これはオトナの男女の応酬 (ヤリトリ) で、よろしいなあ、若いもんではこういうふうにはいかない。貫之も女も、中年ですなあ。酸いも甘いもかみ分けてる。梅の花に、女の残んの色香をちょっとひっかけている所も、手馴れてます。この貫之はんはプレイボーイやったんと違いますか」
さあ、ねえ。
そのところは分らない。紀貫之、 『古今集』 の撰者のチーフ、プロ歌人として平安時代の第一人者 、 『土佐日記』 の作者、そうして 『古今集』 序で見られるように批評家としても一流の人、というのは私のまずしい知識の中にありますが、どうだろ、プレイボーイだったかどうか、何しろ彼の歌は、真情流露という私小説風な歌よりも、屏風なんかに書くのにつくられた歌が多いんだもん。
ちょうど裾模様の着物風というか、壁画風というか、大都会に駅のコンコースかなんかにその都市や国にちなんだモチーフの一大壁画がある、そんなんに似ていて、彼の歌は公的な場が多い。映え立って晴れがましい、おめでたい、美しい、人の心をハレバレさせる、そんな歌が彼は巧い人だった。それによって貫之は一千年の間、歌聖といわれてきた。
しかしプレイボーイとはどこにも書いてありませんな。 『土佐日記』 を読むと、子煩悩だったということは分るが。
例によって金田元彦先生のお説をかりると、貫之は内教坊 (ナイキョウボウ) (朝廷の中に設けられた舞踏音楽研究所。百五十人くらいの妓女が修行していて、いわば国立の宝塚みたいな所) の妓女を母とし、その中で育ったらしいという。阿古久曾 (アコクソ) (アコチャン、というような意味) と呼ばれていたというから、音楽的情操も幼時に養われたのであろう。彼の歌にリズムがあるのはそのせいかもしれない。プレイボーイでなくても女性真理洞察家になったのは、その出自 (シュツジ) のせいか。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ