〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/18 (金)  小倉百人一首 (山川に)

やま がわ に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉もみじ なりけり
(春道はるみちの つら )
山道をゆけば
河の急流のひとところ
秋風がかけた しがらみができている
風が作った しがらみって
何だか わかるかい きみ
もみじなんだよ
深紅のしがらみなんだ
もみじはしきりに落ちたまり
水は流れることもできぬ
秋風の風雅ないたずら
美しいもみじの しがらみ

『古今集』 巻五・秋歌下に 「志賀の山越えにてよめる」 として、この歌が出ている。
志賀の山越え、というのは、京都市左京区北白川から、如意が嶽と比叡山との間を通って、近江の志賀へ抜ける山道をいう。志賀には志賀寺もあったので、その参詣人を含め、たくさんの人々が往来したらしい。
私はまだその道を知らないが、しかし現在では 「道筋も定かには辿りがたいようである」 と 「百人一首必携」 (久保田淳編・学燈社) にはある。
山道で見た実感であろうか、紅葉が吹き込む清流、晩秋の風の雰囲気が出ていていい。
「風のかけたる」 と、風を擬人化して、かるく拈弄 (ネンロウ) するところが、 『古今集』 調。
しがらみ、というのは、田に水を引くときとか、土木工事のとき、水の流れを堰きとめる柵である。杭を打って、それへ横ざまに木や竹をうちつけたもの。
しがらみといえば、古来から有名な歌がある。菅原道真が政争に敗れて九州へ流されていくとき、同士であり、庇護者である宇多法皇に訴えた歌である。
  「ながれゆく われは水屑 (ミズク) と なりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」
しかし、このとき、宇多法皇は無力で、道真のしがらみとなって、彼を救ってやることはおできになれなかった。
ところで、 「志賀の山越え」 というのは、 『古今集』 の前書きにちょいちょい出てくる。そのころの歌枕であったのかもしれない。
貫之は春に、この志賀の山越えの道を行き、女たちがたくさん連れ立ってくるのに会って、
  「あづさ弓 春の山辺を 越えくれば 道もさりあへず 花ぞ散りける」
という歌を詠んで、女たちに捧げた。
── 春の山路を越えてくると、いやあ、花だ花だ、こりゃ満開、花だらけ、道をよけることもできぬほど、花がちりましなあ・・・・
というような感じであろうか、花というのはもちろん女たちをさしている。
「あらまあ、口が巧いわ、貫之さんたら」
「えーっ、どうかしたの」
「ほら、これよ、見て見て」
と歌は女たちの手から手へと渡される。
全く、貫之というのは、こういう時の挨拶のうまい男である。吸う息吐く息が歌になるのだ。
しかし私はこの歌を見て、 「志賀の山越え」 をいろいろ想像した。山中の道、緑ふかいところ、女たちが次から次へとやって来る。志賀寺へ詣でる途中か、それとも帰りなのか。女たちの花やかな衣の色が、木々の間からこぼれ、時ならぬ花のようにも見えたろう。道は幅が細く、女たちを通して男たちは道端へとよける。
「道もさりあへず 花ぞ散りける」 というのは、思いもかけぬ山中、女たちと行き交うた、男の心のどよめきを表現して美しい。
── さて、風のしがらみの歌の作者、春道列樹は、あまり名のある歌人ではないが、百人一首に入れられたためにその名を残した。百人一首に入らなかったら、春道列樹などという軽演劇の芸名のような名は歴史の闇の中に埋没してしまっていたに違いない。作品の持つ運命の幸・不幸というものは、あるものである。
列樹のくわしい生涯は今までのところ不明である。父は主税頭 (チカラノカミ) (今でいう大蔵省の局長クラスか) 新名 (ニイナ) という人であったという。官吏登用の国家試験にパスして、叙位任官されて役人になっている。延喜二十年 (920) というから醍醐天皇の御代、壱岐守 (イキノカミ) に任ぜられてが、着任する前に死んだといわれる。没年不詳。
この列樹、歌は五首しか伝わっていない。 『古今集』 に三首、 『後撰集』 に二首。
懸詞や縁語を用いた技巧的な歌が多いが、その中で、山川のしがらものこの歌は、実感的でいい方である。
もう一つ、私の好きな歌。列樹がどんな人柄の男で、どんな人生を送ったか分らないが、われわれの感懐をうまくすくいあげて歌ってくれている。 「年のはてによめる」 として、大晦日の詠。
  「昨日といひ 今日とくらして あすか川 流れてはやき 月日なりけり」
昨日はこうだった、今日はこれをしないといけない、明日には (飛鳥川にかけている) この予定があるといいながら、あっという間に月日がたってしまった、はや一年過ぎたのか。── 永遠に人はこの感懐をくりかえす。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ