〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/17 (木)  小倉百人一首 (朝ぼらけ)

朝ぼらけ あり あけ の月と みるまでに よし の里に ふれるしら ゆき
(坂上さかのうえの これ のり )
夜がほのぼのと明けてきた
あたりは白く明るい
この明るさはありあけの月の光かと思ったが・・・・・
雪だった
月の光に見まがうほどの
あたり一面薄雪が積もって明るんでいるのだ
ここは吉野なのだ

これは 「百人一首」 の中でも私のわるに好きな歌である。私はどうやら体言止めの歌に特殊な嗜好を持っているらしい。 「百人一首」 の中の64番、定頼 (サダヨリ)
  「朝ぼらけ 宇治の川霧 (カワギリ) たえだえに あらはれわたる 瀬々 (セゼ) の 網代木 (アジロギ) 」
などというのも好きだ。
この 「吉野」 の雪の歌など、むつかしい言葉もなく、すらりと理解でき、起きてみたら雪だった、という作者の感動と興奮が伝わってくる。
この歌は 『古今集』 巻六・冬の歌から採られていて、 「大和国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる」 と詞書がある。
吉野といって連想ゲームをさせると、現代人なら 「桜」 「花見」 「酒」 などと答えるかもしれない。あるいは 「南北朝」 とか。しかし王朝の昔の人は、 「古い離宮」 をすぐ連想する。かの天武天皇が隠れ潛み、持統天皇が遊んだ吉野の離宮、山深い峠を越えた清い山河、そこは京に住む人々から見れば異郷である。 『万葉集』 には吉野の山水を讃美する歌がかず多くある。王朝の風流 (ミヤビ) びとはその歌を心象風土の原点に置いている。だから 「吉野の里に ふれる白雪」 といったとき、人々は、
< ああ、あの古い代の離宮のある・・・・赤人が
  「み吉野の 象山 (キサヤマ) の際 (マ) の 木 (コ) ぬれには ここだもさわぐ 千鳥しばなく」
と歌ったところ・・・・神秘の山河。水の精霊の静まるところ・・・・ >
という連想が精神の底音部になりひびいていたことだろう。
それゆえ、いやが上にも 「吉野の白雪」 は美しいのである。また王朝びとは、吉野をよっぽど寒いところと思ったに違いない。
人々のイメージの中の吉野は雪で荘厳 (ショウゴン) され、その奥へ分け入って再び戻らなかった人もまた、神秘化される仙境 (センキョウ) であった。
坂上是則の歌のすこし前に、 『飢饉集』 は壬生忠岑の歌を載せる。
  「み吉野の 山の白雪 ふみ分けて 入りにし人の おとづれもせぬ」
この歌は静御前によって昔からよく知られている。文治 (ブンジ) 二年 (1186) 四月八日、鶴岡八幡宮 (ツルガオカハチマングウ) の神前で、静御前は舞う。頼朝や政子をはじめ、鎌倉幕府のそうそうたる侍たちがみな、静御前に注目している。都で一番 (ということは日本で一番ということである) すぐれた白拍子 (シラビョウシ) の芸を見ようというので、東国びとは少なからぬ期待と興奮で固唾を呑んでいたことだろう。
周知のように、静御前は義経の愛人で、義経の都おちに従って吉野山まで同行したが、そこで別れ、静は美しき囚 (トラ) われびととして鎌倉へ護送されたわけである。
八幡大菩薩に奉納する舞であれば、関東鎮護、鎌倉幕府の千秋万歳を祝うべきなのに、このとき静はわるびれず、堂々とプライベートな感懐をうたい上げる。
  「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
  「しづやしづ 賎 (ジヅ) のをだまき 繰りかへし 昔を今に ますよしもがな」
鎌倉の侍たちが血まなこで追討している最中の愛人を、静は恋しがって歌いあげるのである。物の本によると、このとき静はハタチぐらいであったろうという。若さと愛はたいへんな勇気を与えるものである。
私が子供のころ読んだ本では、 「堂々有髯 (ユウゼン) 男児を瞠若 (ドウジャク) たらしめた」 と書いてあった。昔は子供の読む本でさえ、平気でむずかしいコトバを使ってあったものである。
果たして頼朝は怒り狂ったが、妻の政子のとりなしで、機嫌を直して、静には褒美を与えたという。またそれでいえば、静御前が吉野の山中の大雪の中で、途方にくれている絵も見た記憶がある。
私は子供ごころに、
< 吉野山というのは雪が深いのやな。こんな所で一人、道に迷うたらどんならん、めったと冬にいくまいで >
と深く、うなずくところがあった。
われわれの年代では、義経や静御前は、二、三代前の身内の人のように思い込んで育ったが、いまの若者はどうであろうか。
「いや、そのへんは何ンか、ごっちゃになってようわかりまへん」
と与太郎青年はいう。
「さっきの 『政子』 も、僕はとっさに 「大屋政子」 サンかと思 (オモ) た」
なんで政子チャンが静御前ととり合わせになるのだ。もちろん、 「尼将軍」 の政子である。
さて、この歌の作者、坂上是則は醍醐天皇のころ (十世紀はじめ) の人。くわしい生涯は分らないが、下級官吏から累進して地方長官になっている。蹴鞠 (ケマリ) の名人でもあったというから、多趣味は才人だったらしい。貫之や躬恒、忠岑らと芸術家同士のまじわりも楽しみ、三十六歌仙の一人となっている。
是則の歌は平明だが、どことなく風韻があっていい。
「奈良の京にまかりける時に、やどりける所にてよめる」 という詞書の歌、
  「み吉野の 山の白雪 つもるらし ふるさと寒く なりまさるなり」
もいい。このふるさとは、是則の郷土という意味でなく、古都、という意味である。是則は大和権少掾 (ヤマトノゴンノショウショウ) だったことがあるから、奈良へは公用の出張だったのかもしれない。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ