心あてに
折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる 白菊の花 |
(凡河内
躬
恒
) |
初霜でそこらじゅう 真っ白になってしまった
白菊の花がそれにまぎれて
どこかわからないじゃあないか
あて推量で このへんかなあと
折るならば折れるかもしれないが
なにしろ 一面 白い中の白菊の花だからなあ |
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この歌は、かえって子供が読んだ方がすんなりと入って来て、面白い歌ではあるまいか。
子供はむつかしく考えないから、この誇張を面白がって、 「ハハハ・・・・」 と笑うかもしれない。これは 「ビックリハウス」
的感覚である。 「折らばや折らむ」 という語句が難解で、いろいろ説があるが、 「折ろうならば折られもしようか」
「折るならば折ってみるよりほかない」 など受けとられている。
こういう歌はむつかしく考えずに、 「ハハハ・・・・・」 とその機才頓智を面白がればいいのであるが、何しろ歌の神様の定家が選んだ名歌だと、中世以来みんなは信じ込んでいたので、いろいろ勿体をつけて、この歌もうやうやしくてたてまつってきたのであった。
それが明治三十一年、正岡子規が 『歌よみに与うる書』 の中で、この白菊の歌をこっぱみじんにやっつけてから、人々は目からウロコが落ちたように、この歌をかえりみなくなってしまった。
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「この躬恒の歌百人一首にあれば誰も口ずさみ候えども一文半文のねうちもこれなき駄歌に御座候。この歌は嘘の趣向なり。初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなる気遣いこれなく候。趣向嘘なれば趣も糸瓜
(ヘチマ) もこれあり申さず、けだしそれはつまらぬ嘘なるがゆえにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。
(ここで子規は前の家持 (イエモチ) の 「かささぎ」
の歌をほめている) 躬恒のは瑣細なことをやたらに仰山に述べたのみなれば無趣味なれども家持のは全くないことを空想で現してみせたるゆえ面白く感ぜられ候。(中略)
今朝は霜がふって白菊が見えんなどと真面目らしく人を欺く仰山的の嘘はきわめて殺風景に御座候。 (中略)
小さきことを大きくいう嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申し候」 (原文は旧仮名遣いである)
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たしかに伝統のおりがよどんで腐臭をたてはじめていた、当時の和歌の状況からいえば、こういう批評も清新ではあるが、現代感覚から見ると、この白菊の歌の軽さはかえって、面白いのである。躬恒の歌は軽快さと機智を特徴とする。
この歌は 『古今集』 巻五・秋歌下に、 「白菊の花をとめる」 として載せられているが、春の歌で同じく躬恒の、
「月夜には それとも見えず 梅の花 香をたづねてぞ 知るべかりける」
という同巧の歌があり、これはじらじらとした月光のもと、同じく白い梅の花がよく見えない、梅の高い香りをめあてに、ありかを知ることが出来るというような趣向である。この心はずみする楽しい機智も、歌の持つ徳で、王朝人の風流
── みやび ── であったように思われる。 『古今集』 は代々、歌のお手本とされて、粘稠度 (ネンチュウド)
のたかい尊崇を受け、神聖視されて、ニッチもサッチもいかなくなったという印象であるが、ほんとはもっと軽快な詞華集
(シカシュウ) ではないかと思われる。
この躬恒という人は、 『古今集』 撰者の一人という名誉に輝く歌人だが、身分は低く、生没年もその祖父の名も分らない。しかし即興歌人というのか、あるとき天皇から、月の異名を
「弓張」 というのはいかなるゆえか、というご下問をうけてすぐさま歌でお答えした。
「照る月を 弓張としも いふことは 山の端さして いればなりけり」
射ると入るをかけたシャレである。天皇は大いに賞でられて、ほうびに白絹の衣を賜った。慣例として禄
(お祝儀) をいただくときは肩にかけることになっている。躬恒はそれを肩にかけ、ふたたび即興で、
「白雲の このかたにしも おりゐるは あまつ風こそ 吹きてきぬらし」
と詠んだと 『大鏡』 にある。吐く息・吸う息が歌になるというような人であったらしい。それも歌のていをなしているというだけでなく、奇警なアイディアとともに、歌のすがたに一種の風格がある。ユーモアの
「志」 とでもいうべきものである。
「そういう歌はやはり、男しか詠めんでしょうな。女には奇抜なシャレの歌はおまへんやろ」
と熊八中年はいう。私は寡聞にしてよく分らないが、とっさに一つ、 『徒然草』 にある話を思い出した。延政門院
(エンセイモンイン) という内親王さまが童女でいらしたころ、お父君の後嵯峨上皇にさしあげられたという、かわいいクイズ和歌である。
「ふたつ文字 牛の角もじ 直ぐな文字 ゆがみ文字とぞ 君はおぼゆる」
── こ・い・し・く・・・・の字を指しているという。中世では歌は日常的に、クイズにもパズルにも使われた。 |
「田辺聖子の小倉百人一首」 著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫 ヨリ
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