〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/14 (月)  小倉百人一首 (みかの原)

みかの原 わきて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ
(中納言ちゅうなごん かね すけ )
(ミカ) の原を ふたつに分けて
しかも湧きあふれて流れる泉川よ
いずみよ いずみ
あなたを 「いつみ」 たというのか
ぼくはまだ あなたに逢ってやしない
それなのに
なぜこんなに恋しいのか
逢ってください このぼくに

王朝には、 「逢わざる恋」 よいう、恋愛のテーマーがある。昔の恋は知り合って恋におちるというのではなく、まだ見ぬ深窓の麗人にあこがれを捧げ、恋文や歌を贈って求愛するのである。
「なんで見もしない女が、好きになれまんねん」
雑駁 (ザツバク) な与太郎青年は、ふしんそうにいう。
「現代みたいにテレビや雑誌があったら、写真や映像は氾濫してますからな、吉永小百合にあこがれるとか、大原麗子に恋するとかいうことがありますが、昔は、絵でも描いてブロマイド代わりにばらまいたり、したんでしょうか」
「そんな、はしたないことはしません。昔の貴族令嬢は、ただ存在するだけで、男性のあこがれの的だったのです」
「へー。そんなことがありますかねえ」
と与太郎は疑わしそうにいうが、それは想像力の問題である。
現代人は不幸なことに、何でもまともにバッチリ目の前にあるものだから、想像力は減退してしまっている。しかし王朝の男たちはたくましい想像力を持ち、それが恋心を刺激する。
なにがし大臣の大姫 (オオヒメ) (長女の姫) は美しいという評判だけを聞いて、男たちはもう、カッカとする。その評判を広めるのは、姫君付きの女房たちであろうし、親側でもあろう。貴顕 (キケン) の家の女子はみな政略結婚ではあるが、やはり姫君に箔をつけるため、年頃になるとそういう人気も煽らないといけない。
男たちはせっせと手紙や文を送る。まだ見ぬ人にあこがれているわけである。親たちはそれを検閲して、かねて心づもりの青年であれば容認する。しかし中には、親がそのつもりでもない男は、お付の女房を手なづけて果敢に実力行使する場合もあるから、年頃の姫を持つ親たちの心労はたいていではない。
「しかし、忍びこむなり、結婚するなりして、はじめて姫君の顔を見たとき、噂通りのびじんやったらよろしいが、激ブスやと、目もあてられまへんな」
与太郎はこのたぐいの話題には、たいそう熱心である。
「あるんですよ、そういうことが」
それこそ 『源氏物語』 にある通りである。想像力豊かな源氏の君は、荒れ果てた邸にさびしく住む姫宮の末摘花 (スエツムハナ) をたいそうな美人のように空想する。お付の女房をせっついて姫君弾くお琴の音を聞く。もちろん、顔は見られない。この時代の姫君は、邸の奥深く籠って、人前に顔を見せることは決してない。 「鬼と女は人前へ出ないがいい」 と当時のコトワザにあるくらいだ。
優雅なお琴の音で、いよいよ源氏は、あえかな佳人に思いをかける。そうしてついに忍び込み、姫宮と一夜を過ごすのであるが、この姫は、どことなくボーとした人で、源氏は何だか、期待はずれである。
(セックスは、あたまのよさと感受性の問題だ、と紫式部は、いみじくも千年前に喝破している。男性社会で今も誤信されているように、道具や回数の問題ではないのである。アタマとココロである)
── せめて美人ならな、と思い、朝の光でふと見ると、こじゃいかに、鼻がやたらに長く、先は少し垂れて赤かった。色は白いがずいぶん面長。つまりおでこで馬面、痩せすぎて肩の骨もあらわ、── <いや、しまった> と源氏は思い、 「胸つぶれぬ」 と原典にはある。 『源氏物語』 は実に笑わせるユーモア小説である。源氏の君は、自分の想像力にかえってやられたのである。
まあ、そういうわけで 「甕 (ミカ) の原」 の歌はまだ見ぬ恋を歌っているが、上三句は 「いつみ」 を誘い出す詩句である。
甕の原は、山城国 (イマシロノクニ) (京都府) 相楽 (ソウラク) 郡賀茂 (カモ) 町、奈良のむかし、聖武天皇がここに恭仁京 (クニノミヤコ) を造営された。天平 (テンピョウ) 十三年 (741) から十六年 (744) まで三年あまりの都であった。
この時期、聖武天皇は奈良からこちらに遷都して彷徨をかさねている。甕の原にはもともと離宮があったのだが、木津川 (泉川はその古名) にのぞむ山間の小盆地が新都となったのであった。しかしそれもおちつかず、三年後、都は難波に移された。
作者の藤原兼輔は三十六歌仙の一人で、王朝初期の歌人として有名である。また政治人間であったのか、父や祖父より立身して中納言に至り、朱雀天皇の承平 (ショウヘイ) 三年 (933) 五十七歳で死ぬ。
賀茂川の堤に住んだので、世に堤中納言と呼ばれた。この人の歌で人口に膾炙しているのは、
  「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」
『堤中納言物語』 という短編集があるが、これは兼輔が書いたものではない。物語はずっと後世に書かれている。
また、 「みかの原」 の歌も、これはどうやら、詠み人知らずの歌らしい。 定家が 『新古今集」 に兼輔作と間違って入れたのか。しかし調べの流麗な歌で、古代の演歌といってよい。
兼輔は歌壇のパトロンといった存在で、貫之や躬恒など歌人をよく世話したといわれる。
彼はまた、紫式部の曽祖父でもある。紫式部の家系は、由緒ある文雅の血統であった。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ