〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/12 (土)  小倉百人一首 (小倉山)

小倉山おぐらやま 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
(てい しん こう )
小倉山の紅葉よ 心あるならば
その美しさを そのままに
どうか散らずにいておくれ
もういちど 帝の行幸があるはず
その晴れの日を待っていておくれ

『拾遺集』 巻十七・雑秋にある。詞書に、
「亭子院 (テイジノイン) 大井川に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりと仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して、小一条太政大臣 (コイチジョウダジョウダイジン)  貞信公」
── 宇多院が大井川に御幸され、小倉山の紅葉の美しさに感じ入られて、これはぜひ、おん子の醍醐帝にもお見せしたいと仰せられたので、お供していた藤原忠平 (フジワラノタダヒラ) (貞信公は死後のおくり名) が、
< さようでございますなあ、その旨、主上に奏上いたしましょう >
といってこの歌を詠んだ、というのである。
その日が延喜七年 (907) 九月十日ともいい、延長四年 (926) 十月十日ともいって、我々にはどちらかわからぬが、天皇の大井川行幸は、醍醐天皇の時に始まる。
小倉山は京の西、嵯峨にある。大井川をへだてて対岸に嵐山があり、水清く、紅葉は映え、まことに風光明媚な名所である。
貞家はこの小倉山に山荘を持っていて、そこで百人一首を選んだので、 「小倉百人一首」 と呼ばれる。
「小倉山」 というのは、日本の古典の中では、まことにゆかしき連想をさそい出す名前である。小倉というと、昔からこの歌を思い出し、定家の小倉百人一首を思い出し、彼がそれを書いた小倉色紙を思い出す、というのが日本人の古典教養の常識となっている。
この歌は、詞書が分らないと意味のつかめない歌であるから、詞書なしでは独立しにくい。しかしそのへんの事情をのみこんで読むと、中々しらべも美しく、しかも大井川や嵯峨野、嵐山、小倉山などを借景 (シャッケイ) にして、実質以上に風雅な匂いが添い、歌が巨 (オオ) きじなっている。トクな歌である。
風雅で思い出したが、おいしいものを食べたり、綺麗な景色を見ると、親は子を思い出し、あの子にも体験させてやりたいと思う親心がある。宇多さんもそう思われたのかもしれないが、それ以上に、この時代は風流な時代であり、宇多さんも醍醐さんも優雅を解されるかたであった。
『大鏡』 には醍醐さんの御代には 「いと面白き事ども多く侍りきや」 とある。大原野 (オハラノ) への鷹狩のとき、雉をとらえた鷹が御輿 (ミコシ) の頂の鳳凰の飾りにとまったことがある。折からの夕日に山の紅葉は照り映え、雉は紺青 (キンジョウ) に輝き、鷹は白い羽を羽ばたいた美しさ。人々は、 「身にしむばかり」 思ったという。この時代のものはみな、映えた。
醍醐帝はいつもにこやかなお顔でいられた。
< ぬつかしい顔をしていると、人はとっつきにくいと思って話しかけないからね。にこにこしていると、みなが話しやすいだろう。大事な事も些細なことも聴こうと思ってね >
といわれたそうである。また常に、
< 私は七月と九月には死にたくないね。七月は相撲の節会 (セチエ) (天覧の相撲の行事) があるし、九月には重陽 (チョウヨウ) の宴がある、これが停止になったら残念だからな >
とおっしゃったそうである ( 崩御の年は両方停止されたけれど、まことに情趣ふかき帝ではないか ) 。
ともあれ、日本的な風雅趣味はこの時代あたりから濃くなってゆくので、趣味を同じくされる御父子であったかもしれぬ。
只平は基経 (モトツネ) の四男で、かの道真を陥れた時平 (トキヒラ) や、女流歌人・伊勢の愛人だった仲平 (ナカヒラ) と同腹の兄弟、この兄弟は 「三平 (サンヒラ) 」 と呼ばれ、当時の人気男たちであった。そのうち忠平は兄弟の中で最も順調な人生を送った。摂政十二年、関白八年、朱雀・村上両帝の伯父になり、藤原氏全盛の基を築き、彼の子孫が長く政権を握った。
忠平は兄の時平と違い、温厚な性格で、左遷後の道真とも、音信を交わしていたという。宇多院とも仲がよかったらしく、若い時は院の取り巻きの一人でもあった。そこでこの歌もできたのであろう。醍醐帝の御代に 『延喜式 (エンギシキ) 』 という法典五十巻、 『延喜格 (エンギキャク)(詔勅・官符 (カンプ) の集成) 十二巻を完成して撰進している。
「つかぬことをうかがいますが」
と熊八中年はいう。
「戦前 "おぐら" というぜんざいがありました、粒 (ツブ) のあずきで ── 戦時中・終戦直後は甘いもんに飢えていたので、夢にみるほどでしたな。この歌と関係がありますか」
あるらしいのですよ、粒あんの粒々を、鹿子 (カノコ) まだらに見立て、そこへ鹿に紅葉のとり合わせから、この歌をひっかけて “おぐらあん” といったらしい。私たちの少女時代 (昭和十年代はじめ) 、粒々の多いぜんざいを “小倉” といい、白玉や餅が底にあるのは “亀山” といっていた。これも小倉山近くの亀山に桜の花が白くちらちらみえる、そのさまをたとえたものらしい。亀山も小倉も、戦争中は幻の食べものになってしまった。私たち少女は、どんなにあこがれたかしれない。
終戦後は、バタくさいお菓子がもてはやされ、亀山も小倉も、名前さえ忘れられてゆき、ぜんざいは女の子の愛好から遠くなった。
「それに、復活したころには、こちらも酒の味をおぼえてしまったから、もう甘いもんは要らんようになった ── しかし風流なネーミングですな」
と熊八中年は感慨深げにいう。小倉昆布というのも色紙形に切ってあるからだろうか、定家や百人一首は日本民族の郷愁そのものである。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ