〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/11 (金)  小倉百人一首 (名にし負はば)

名にし お はば あふ さか やま の さねがづら 人に知られで くるよしもがな
(さん じょう だい じん )
ねえ きみ
逢坂山のさねかずらって
暗示的な名前だと思わな いかい?
きみに 「逢う」 の 「逢坂山」
きみと 「寝る」 の 「さ寝」なんて
ああ そういえば
さねかずらは蔓草 (ツルグサ)
ツルをくるくるたぐりよせるように
人目につかず きみのもとへ
「くる」 方法はないものかねえ

たいそう技巧的な歌で、このウィットは、受け手に等質の才気がないと理解され難い。
だから、現代の私たちがよむと、
<そうですか> とただ一語、いうのみで、お世辞にも面白いとはいえない。
<ハハァ、いや、わかりました>
というが、だからといって特に興趣が増すわけでもない。
作者の三条右大臣にはわるいが、、 <どうッちゅうことない> というようば歌である。そうして国語のお勉強には、えてして、こういうつまらない作品を押しつけられるから、若者はうんざりして古典嫌いになる。
しかしこの作者が生きていた頃は、この歌をもらった相手は、とても面白く思ったはずである。その時代では気の利いた歌だった。
『後撰集』 巻き十一の恋の部に 「女のもとにつかはしける」 として出ている。
作者の三条右大臣は藤原定方 (サダカタ) (873〜932) 。父は内大臣・高藤 (タカフジ) 母は、身分低いが山科の豪族の娘であった。この高藤と娘の間には 『今昔物語』 に伝える奇しきロマンスがある。
高藤は若い頃鷹狩に出かけ、山科で雷雨にあい、そのあたりの邸で雨やどりをした。そしてはからずもその邸の娘と一夜を過ごした。
その娘を恋しく思いながら事情があって再会できなかった。何年かしてやっと高藤が訪れてみると、娘はいよいよ美しくなり、そばに可愛い小さな女の子までいた。雨やどりの一夜の契りにもうけた女の子だった。高藤は純情な青年であったらしく思われる。喜んで母子を邸へ引き取り、他にも妻を持たず、生涯仲よく連れ添い、二人の男の子、定国 (サダクニ) 、定方を持った。 「さねかづら」 の歌の作者は、そんな両親のロマンスから生まれた人である。
父の高藤はさしたる業績も伝わらなぬ貴族であるが、雨やどりの姫君が一家に幸運をもたらすことになった。この姫君が年頃になって、父の高藤は源定省 (ミナモトノサダミ) という官吏と結婚させた。
定省は光孝天皇の皇子であるが臣籍に降下していたのだった。二人の間には早くも男の子が生まれていた。
光孝天皇が崩じられたとき、にわかに運命は変った。源定省は再び皇族に復帰し、皇位について宇多天皇となる。姫君は女御と呼ばれ、その男の子は皇太子となった。
高藤は昇進し、皇太子が即位して醍醐天皇となると、内大臣となった。二人の息子、定国と定方も立身を遂げた。定国は政治家であったが、定方は、歌や管絃の道で名高い文化人となった。醍醐天皇の御代の年号を延喜というが、延喜朝の歌壇では、定方は中心人物の一人である。
山科の村娘との恋の話を、醍醐天皇はその母君にでも聞かれることがあったのだろうか。その故地をなつかしく思われ、 「死後の陵 (ミササギ) はそのあたりに」 と遺勅 (イチョク) があったという。
雨やどりした豪族の家をのちに寺にしたのが勧修寺 (カンシュウジ) で、高藤系の氏寺となった。
さて定方はそんなわけで、右大臣にまで累進する。邸が三条にあったので三条右大臣と呼ばれたが、この歌は、若い頃の歌であろう。
男は人目を忍んで女のもとへ通う習わしであるが、追い追い、人の噂も高くなり、通うのがむつかしくなる。といって、まだ大っぴらに通うほど機が熟さない。 「困ったねえ、人に知られずに通う手だてはないものかしら」 と、それだけのことをいうのに、手の込んだ技巧を凝らしているところが、王朝らしい歌である。
「人に知られで くるよしもがな」 の 「くる」 を、女が男のもとへくる、という解釈もあるが、これは王朝では絶対、あり得ない。
男が車を迎えに出し、それの乗って女がやって来るというケースもないではないが、女が通うことはない。通うのはもっぱら男で、女はもっぱら待つのである。
この 「くる」 は、 『古語大辞典』 (角川書店) にあるように、 「話し手の関心の地を中心としていう場合もある」 。ほんとうは 「行くよしもがな」 というところであるが定方の心は、女のもとにあるから、 「くるよしもがな」 になる。
「大和 (ヤマト) には 鳴きてか来 (コ) らむ 呼子鳥 (ヨブコドリ)  象 (キサ) の中山 呼びぞ越ゆなる」 ( 『万葉集』 巻一・七十)
この歌の 「来 (コ) 」 と同じ。この作者も、身は吉野にあって、大和へいくことを 「くる」 と表現している。
さねかずらは 『万葉集』 にもよくよまれているが町者の私はよく知らず、 『花万葉集』 (光村推古書院刊) の浅野喜市氏の写真で見ると、冬日の中に、美しいサンゴのような真紅の実をつけている。ツルの中にねばねばの液があって、これは古代の男の整髪材、ポマードであったから、さねかずらを一名、美男葛 (ビナンカズラ) ともいう。
「名にし負はば」 という通り、「さねかずら」 の名から、色っぽい歌の小道具に使われたようである。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ