〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/10 (水)  小倉百人一首 (このたびは)

このたびは ぬさ もとりあへず 手向山た むけ やま  紅葉もみじにしき 神のまにまに
(かん   )
この
あわただしく発ちましたから
幣の用意もできませなんだ
手向山の神よ
このみごとな美しい紅葉の錦を
私の捧げる幣として
み心のままにお受けください

菅家というのは菅原道真の尊称である。 『古今集』 巻九・羇旅 (キリョ) に 「朱雀院 (スザクイン) (宇多上皇のこと) の奈良におはしましたりける時に、たむけ山にてよみける」 として出ている。
道真は 「天神サン」 として日本人に古来親しまれ、学問の神様として尊崇されている人であるが、この歌を詠んだ時は五十四、権大納言で右大将である。まさにのぼりざかの真っ最中である。右大臣となって、左大臣の藤原時平 (トキヒラ) と台閣 (タイカク) の首班を争うのはその翌年であるから、この頃は道真の生涯でも得意絶頂時代。
先祖代々学者の家に生まれ、学者として最高の地位の文章博士 (モンジョウハカセ) となり、祖父伝来の私塾、 「菅家廊下 (カンケドウカ) 」 を主宰し、たくさんの学者を育てた。また、天成の詩人で、漢詩はむろん、和歌もよくした。詩人学者として終わっていれば、道真は幸福な生涯であったろう。
思いもかけぬ政界へ足を踏み入れることになって、道真の運命は大きく変わる。
時の天皇は宇多帝で、まだお若く、勢力ある老臣・藤原基経 (モトツネ) がけむたくてならない。基経が死ぬと、藤原一族を押さえる意図もあって、かねてその学才や見識、高潔な人格を買っていられた道真を大抜擢され、どんどん引き立てられる。
基経の子の時平も廟堂に列していたがまだ若かった。彼ら藤原貴族たちは内心、道真が宇多帝のブレインとして活躍するのに腹を立て 「家柄もない儒者あがりが・・・・」 と排斥の機会を狙っていた。
折も折、宇多帝は寛平九年 (897) まだ十三歳の皇太子に譲位される。三十一歳のお若さだった。
この宇多さんというお方は根っからの遊び好きで、窮屈な皇位がいやになったらしい。道真がいれば大丈夫、とばかり、醍醐天皇となった皇子に、 「道真のいうことをよくきむんだよ」 と言いきかせて位をおりてしまわれる。このあと六十五で亡くなられるまでの放埓な遊蕩ぶりをみると、のちの十三世紀の鳥羽上皇といい勝負である。天皇家には時々、こういうケタはずれの遊び人が出るから楽しい。
しかし反面、文学好きな宇多さんは、宮中で詩酒の宴をよく開かれた。皇后も歌合せをしばしば催され、文学的気分が大いにおこって世を刺激し、やがて 『古今集』 へとつづく。 『古今集』 前後の時代、といわれるゆえんである。
さて、この歌は昌泰 (ショウタイ) 元年 (898) 十月二十日、宇多上皇が吉野の宮滝 (ミヤタキ) へ出かけられたとき、お供した道真が詠んだもの。
たむけ山は固有名詞とは考えなくてよかろう。神の鎮 (シズ) まります坂や峠のことである。旅の安全を祈る峠は、昔は神聖な場所であった。
幣というのは、神主さんがお祓いのとき手に持つ白い紙だが、この時代のは、色の絹を小さく切ったものだという。旅へ行くときはそれを幣袋 (ヌサブクロ) に入れて、峠で撒き、神に、旅の無事を祈るのである。
紅葉を幣に、という思いつきがきらびやかに詠まれている。
さて、宇多上皇はその後間もなしに落飾 (ラクショク) される。
法皇となれば、もう政治に介入できない。時平はここぞと行動を開始する。お若い醍醐帝を抱きこんで、 「道真は皇弟を擁立して謀叛をたくらんでおりますぞ」 と吹き込む。
ただちに道真は太宰権帥 (ダザイノゴンンオソツ) に左遷される。息子すらも土佐や駿河に流され、妻と娘は都に、一家は散り散りになる。宇多法皇はそれを救うにはあまりにも無力だった。
筑紫の配所で、道真は念仏と作詩の日々を送った。その年九月九日、道真はうたう。

「去年ノ今夜、清涼ニ侍ス。 秋思ノ詩編、独リ断腸。
 恩賜ノ御衣、今ココニアリ。 捧ゲ持チテ毎日、 余香ヲ拝ス」
私たちが子供の頃から教え込まれた詩である。無実の罪を晴らすすべなく、配所で淋しく死ぬ。五十九歳。
なきがらは筑紫に葬られ、都へ帰ることはなかった。都へもたらされたのは、親友の紀長谷雄 (キノハセオ) に托した詩稿であった。長谷雄は受け取って泣いたという。これが今に残る、悲痛な悲しい詩集 『菅家後集 (カンケコウシュウ) 』 である。
── 道真の怨霊が時平一族を若死にさせ、雷を宮中に落としたという話は有名である。怨霊を鎮めるため、京の北野に道真を祀られることになった。これが天神サンの由来。
「配所の月、というけれど筑紫は食べ物もうまいでしょ、僕、博多やったら単身赴任してもエエなあ、と思とるんですが・・・・」
与太郎青年はいう。
「うまいもん食うて酒飲んで、都と違う風景楽しんで詩作ってたら、天神サンも楽しかったんちゃいますか」
「天神サンはお酒を飲まなかった人でしてね、音楽、酒、詩を君子の三友というけれど、音楽と酒は 「吾れ知らず」 、詩だけが友、というてはる、それも人の愛されて流行歌となるのは好かん、と。一人心のうちに思うだけ、と」
「陰気な爺さんですな、配所の酒こそうまいのに、それが飲めんのではしょうない」
「そうそう」
私、与太郎と話が合ったのは始めてである。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ