〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/07 (月)  小倉百人一首 (月見れば)

月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど
(おお えの さと )
秋の月を見れば
物思いさまざま
心は千々に乱れて
うら悲しいものだ
私一人のために
秋がきたのではないけれど

『古今集』 秋に 「是貞 (コレサダ) のみこの歌合によめる」 として出ている。さきの 「むべ山風」 の歌と同じ時に作られた歌らしい。
この歌は数字のお遊びである。 「千々 (チヂ) 」 と 「一つ」 を対照させている。しかしそれが表に出てひっかからないように、うまく歌の仲にはまっている。
この歌は 「白氏文集 (ハクシモンジュウ) 」 の漢詩を翻案したといわれている。

  「えん ろう ちゅう  そう げついろ  秋来ッテ ただ 一人ノため ニ長シ」

大江千里は漢学者で、しかも歌詠みであったから、漢詩の心を和歌に詠みこむのがうまいのである。
彼には 『句題和歌 (クダイワカ) 」 という歌集がある。寛平六年 (894) 、宇多天皇の勅命で、漢詩の句を題にして和歌を詠み、献上したもの。 たとえば 「わが身一つ」 の歌によく似た風趣の歌をさがすと、
  「秋来 只 此ノ身ノ哀レヲ識ル」
という題に対して、
  「おほかたの 秋くるからに 我が身こそ 悲しき物と 思ひしみぬれ」
  「明ラカナラズ暗ラカラズ 朧々タル月」
の心を、
  「照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の 朧 (オボロ) 月夜ぞ めでたかりける」
  「長歳 独リ遊人ト作 (ナ) ル」
  「あやなくも 年の緒長く 独りして あくがれわたる 身とやなりなむ」
はつらつたる才気である。漢学者といっても、決して融通の利かない堅物ではなさそうだ。四角い字を苦もなく、しらべ美しい和歌に訳し、情緒も添えて申し分ない。いまでいえば、横文字を縦文字に直すようなものであろうか。
千里の生きた時代は (生没年は分らない) 九世紀末、十世紀初頭、宇多、醍醐天皇の頃である。
中国文化の影響を脱け出して、日本古来の文化が見直された頃である。男たちは女手の文化や和歌に熱心になりはじめ、女たちもそろそろ、男に負けず漢詩文に親しみはじめていた。
紫式部や清少納言の輩出する百年ほど前のことである。
漢詩文化と和歌が歩み寄り始めた時代、といってもよい。
そういう時に千里の才気は、さぞ人々に愛されたことと思われる。
読者は 『源氏物語』 の 「花宴 (ハナノエン) 」 のくだりを思い出されることであろう。光源氏が春の夜、御殿へそっと忍び入ると、若くて美しい女の声で 「朧月夜に似るものぞなき・・・・」 と歌いながら、こちらへやって来る、これが、敵方の大臣令嬢で、不良少女の朧月夜の君である。千里の 『句題和歌』 では 「朧月夜ぞめでたかりける」 となっているが、紫式部の頃には 「似るものぞなき」 と伝えられ、世の人に愛誦されたらしい。 (後の世の 『新古今集』 では 「朧月夜にしくものぞなき」 となっている)
大江千里は業平の甥である。
千里の父は大江音人 (オオエノオトンド) といい、阿保親王の子であるから、在原行平や業平は、千里のとって叔父にあたる。百人一首の作者を見ていると ── ほとんどみな、ひきずり引っぱって、 一門一族につながったしまう。まことに、 「日本ムラ」 という感が深い。
阿保親王は若い時、自分の邸の侍女との間にできた庶子 (ショシ) ・音人を大枝 (オオエ) という家に養子にやられたようである。のち、大江という姓を朝廷からたまわった。
音人は秀才で、名だたる漢学者となった。その子、千里 (一説には孫ともいう) ・千古 (チフル) 、みな錚々 (ソウソウ) たる漢学者であり、その子孫はよく逸材を出した。大江匡衡 (マサヒラ) 、匡房 (マサフサ) 広元 (ヒロモト) ら、歴史の本に出てくる人が多い。匡衡のの妻が赤染衛門 (アカゾメエモン) である。
代々、東宮や天皇の侍講 (ジコウ) をつとめ、大江家は学問を以って世に立つ家柄として聞こえた。
業平にとって音人は異母兄であるが、同じ一族というのに、業平はかたくるしい経学は苦手な男だから、たいそう対照的で、世間では目立ったかも知れない。
『三代実録』 という史書に業平の経歴が書かれているが、そこには、
「業平体貌閑麗 (タイボウカンレイ) 、放縦 (ホウジュウ) ニシテ拘はらず、略才学無キモ、善ク倭歌 (ワカ) ヲ作ル」
業平は上品な美男で、のびのびした性格であった、概していうと漢学の才はないが、和歌の名人だった ── 当時の貴族の男たちは、漢学の素養を第一の心得としたので、わざとそう書かれてしまう。
そこへくると千里は双方兼ね備えているというわけであるが、歌の魅力、という点から見れば、千里は業平の足もとへも及ばない。
才気は才気に過ぎず、詩人の魂の鼓動は業平の方が、はるかに強く美しい。
「月見ればちぢにものこそ悲しけれ・・・・というのは、何ンか少女マンガみたいなセンチメンタリズムで、大の男はマトモにこんなこといえまへんデ。昔の男は恥を知りまへんな」
と与太郎青年は感心する。これが和歌のみやびで、四季の風趣の汲めども尽きぬ逸興の泉であると ── 説明したいが、声の嗄れるまでしゃべっても、与太郎を得心させにくいであろう。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ