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== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/05 (土)  小倉百人一首 (吹くからに)

吹くからに 秋の草木の しをるれば むべやま かぜあらし といふらむ
(ぶん やの やす ひで )
風が荒々しく吹くものだから
草木は萎れてしまう
なるほどな 荒々しいから
「あらし」とは よういうたもの
さてまた
山風と書いて
嵐と訓むとは
むはははは
これも納得・・・・・
とはいうものの
秋の山風の 身に泌むことわいな

この歌は 『古今集』 巻五・秋歌 (アキノウタ) 下の巻頭に 「是貞 (コレサダ) 親王の家の歌合せの歌」 として出ている。
山風を嵐といふらむ、という頓智 (トンチ) は、現代では中学生でも興がらないかもしれないが、これも 『古今』 的おあそびの一つで、紀友則 (キノトモノリ) の歌にも、

「雪ふれば 木毎 (キゴト) に花ぞ 咲きにける いづれを梅と わきて折らまし」

── 梅の字を分析して、 「木毎に花」 と言いかぶせている。
「いや、そういうの、昔もありました。旧制中学の頃に興じたことがあります、僕も」
と熊八中年はいう。それは悪友の教えてくれたもので、
「 "妾という字を分析すれば 家に波風立つ女" ── という、都々逸 (ドドイツ) でしたな」
品がちがう。
この歌は、理屈めいて現代人の共感を呼ばないものと貶 (オト)し められがちであるが 、名歌佳作ばかり並べられると息苦しくなるものである。時にこういう、気を抜いて気楽なものも好ましく、またおぼえやすい歌なので、駄作のように見えつつ、古来、不思議に人に愛されている。歌の不思議な一コであろう。
『古今集』 撰者たちとしては、この歌にこもる晩秋の山風の凄さを、採りたかったらしい。
「秋歌上」 の冒頭にも風の歌を配しているので、それに対応させたのであろう。
秋風の歌は、立秋の日の、初秋の風を詠む。これも人口に膾炙 (カイシャ) した名作で、私はこの歌が好きである。作者は藤原敏行 (フジワラノトシユキ)

「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかされぬる」
日中は日差しも強く、残暑去りがたいのに、折々ふと風の肌ざわりがするどくなっている。
おお、この風はもう秋の風だ ── とはっと気付くのである。いかにも美しい初秋の歌。
やがて秋が次第にたけ、吹く山風の音も物凄くきかれる、そういう時のために文屋康秀の歌はある。
ところで、このむべ山風の歌、作者は、実際は、康秀ではなく、その子の朝康 (アサヤス) であろうというのが、近来の定説になっている。
何種類かの古写本には 「あさやす」 と書かれているそうである。また、是貞親王は光孝天皇の第二皇子。その歌合は寛平 (カンピョウ) 初年ごろか (889・890?) といわれるが、文屋康秀はそのころには、生存していたとしてもかなりの老齢であって、年齢的に見ても、息子の朝康の作、とした方が無理がない、というのも、朝康も百人一首に入っている歌人である。 (37番)
康秀の方は、生没年は分らないが、九世紀半ば頃の人らしく、三河、山城、などの三等地方官を経て、縫殿助 (ヌイドノスケ) にいたるというのだから、まあ、ぱっとしないお役人で終わったけれど、一応、六歌仙の一人。
『古今集・序』 での貫之の評は、中々、辛い。
「文屋康秀は、詞 (コトバ) たくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人 (アキヒト) のよき衣 (キヌ) 着たらむがごとし」
秀康は、詩句の使い方は巧いが、内容が伴わない。いうなら、商人が立派な衣裳に身を飾ったようなもので、中身に品がない ── ボロクソにいわれている。その上、 「序」 に引かれた 「吹くからに」 の歌は、 「野辺の草木のしをるれば」 となっており、歌は違うわ、作者は息子とまぎれるは、で、この歌は何ともあやふやである。
伝承されるうちに転々と変貌していったのかも知れない。それだけ、民衆に愛されたということであろうか。
この康秀、一つだけ色っぽいエピソードを残している。
同時代の女流歌人で、同じく六歌仙の一人、小野小町と仲がよかったらしく、 (小町のボーイフレンドは、遍昭や業平はじめ多いが) 三河の国 (愛知県) の三等官になって赴任するとき、小町を誘った。
「どうだい、田舎見物に行かないか、行こうよ、いいだろう、おれと一緒にさ」
小町は歌で返事をした。
「わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」
── そうね、面白くないのよ、この頃。浮草みたいに根無し草になって、水の誘うままにどっかへ出かけたい気分よ。
「うーむ」
熊八中年は考え込む。
「思わせぶりな返事ですなあ」
「小町は、ついて行ったと思いますか?」
「いや、行かんでしょう。色よい返事ではありますが。誘う水あらば、とか、触れなば落ちん、とかいう風情の女に限って、口だけのように思われますな」
アタリ、ですね。
「いなむとぞ 」 で、そんなことを空想して思うだけですよ。女は。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ