〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/05 (土)  小倉百人一首 (いま来むと)

いま むと 言ひしばかりに なが つき の あり あけ の月を 待ちいでつるかな
( せい ほう )
あなたが これからすぐ行くよと
おっしゃったばっかりに
まあ どうでしょう
秋の夜長を ずうっと私は待ちこがれ
とうとう九月の有明の月がでるまで
むなしく過ごしてしまったわ

これは男が女の気持ちになって詠ったものである。
すらりと詠んで女の怨みの口吻もただよう。
素性法師は生没不明だが、大体九世紀後半から十世紀はじめの人。三十六歌仙の一人で、当時の有力歌人だったらしい。
平明で口調のいい、分りやすい歌が多い。深みはないが身こなし軽く、そのへんがいかにも 『古今集』 的。
この素性法師の名は私は懐かしい思い出がある。
── 女学生時代、自習時間、クラスの中がわいわい騒いでいると、隣の教室の先生が、つと入って来られて、黒板にさらさらとチョークでお書きになった。
「底ひなき 淵やは騒ぐ 山川の 浅き瀬にこそ あだ波は立て素性法師」
── 底知れぬような深い淵は水音を立てたりはしない、川の浅瀬の方こそやかましい音をたてるものだ。先生は歌の説明をされて、ひとこと、
「静かにせい!」
といって出ていかれた。このあとクラスが静かになったかどうかはおぼえていないが、この歌を私はおぼえているのである。その先生は国語の先生ではいらっしゃらなかった。しかし昔の先生は一般に、国文に強かったように思われる。
「この素性は坊さんでしょ、坊さんが女の気持ちになって歌うたりして、色っぽいことしてええんですか」
と与太郎青年はいう。それは歌の虚構性という一つのお遊びで、そういうテクニックも歓迎されるのが、昔の和歌の世界である。
現代の短歌は、私小説ならぬ私短歌だけしか、認められぬようであるが。
それにこの素性は、坊さんの歌詠みというより、歌人がたまたま坊さんになったという感じで、そのへんも当時の人の理解があったらしい。自発的に出家したのではなく、父親に坊さんにさせられてしまった。
父親は僧正遍昭 (ソウジョウヘンジョウ) そう、12番の 「天つ風 雲のいあよひ路 吹きとぢよ・・・・」 の歌の作者である。父親が出家した時、素性はまだほんの少年だった。
成人して清和天皇に仕えていたが、あるとき父親に会いに行くと、
「法師の子は法師になるのがよいのだ」
と、坊さんにされてしまった。
「ははあ、これからという若いときに、むりに出家させられたんで、却って色っぽい歌が詠めるんですな」
与太郎は分ったようなことを云うが、素性法師は風雅に生きるために、かえって脱サラのチャンスを嬉しく思ったかも知れぬ。
そうでないと、次のように美しい歌が詠めるはずがない。万人に愛される歌が 『古今集」 にある。
「花ざかりに京を見やりてよめる 素性法師」 として、

「見わたせば 柳桜 (ヤナギザクラ) を こきまぜて みやこぞ春の 錦なりける」
素性は後に大和国 (ヤマトノクニ) ・石上 (イソノカミ) の良因院 (リョウインイン) の住職となった。
亡くなったとき、貫之 (ツラユキ) はこう歌って、躬恒 (ミツネ) に贈り、素性の死をいたんだ。
「石上 ふるく住みにし 君なくて 山の霞は 立ちゐわぶらむ」
── 父と同じように、人々に愛された人柄だったようである。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ