わびぬれば
今はたおなじ 難波
なる みをつくしても 逢
はむとぞ思ふ |
(元
良
親
王
) |
人は私を指さしてそしる
不倫の恋に狂う痴れ者と・・・・
世間の目に咎められ
もはや あなたに逢うことも
ままならぬ世のおきて
あなたを恋うて物狂おしく
悶々の日々
ええい もはや同じこと
噂が立ったいまは
難波のみおつくしではないが
身をつくして 破滅しても ままよ
あなたに逢いたい
逢わずには措くものか |
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激越な感情が、美しい調べにみごとに乗って、急湍 (キュウタン) を落ち下るような勢いのある歌である。
大岡信先生は 「あっぱれドン・ファンの心意気」 とおっしゃっている。
この歌の 「難波なる」 がちょっとまごつかされるが、これは別に大阪に関係がある歌ではなく、 「みをつくし」
を持ち出したいための掛けことば。その昔、難波の入り江には、水脈 (ミオ)
を知らせる杭が立てられていた。 「水脈つ串」 はそれをいう。王朝に入ってから、難波といえばみおつくし、みおつくしといえば難波、と歌の縁語に使われるようになった。無論
「身を尽くし」 に掛けられるのである。
元良親王 (890〜943) は、陽成天皇の第一皇子であるが、天皇退位後の誕生である。父君ゆずりの奔放な情熱を、もっぱら恋愛沙汰で燃焼したようである。その歌を集めた
『元良親王御集 (モトヨシシンノウギョシュウ) 」 は全篇これ、女性との恋のやりとりで埋められる。
冒頭に、
「陽成院の一の宮元良親王 (モトヨシノミコ) 、いみじき色ごのみにおはしければ、世にある女の、美
(ヨ) しと聞こゆるには、あふにもあはぬにも、文やり、歌よみつ、やりたまふ」
とあり、美人と聞くと、片っ端から歌を捧げて、まず口説く、というまめな人であったようだ。
『徒然草』 によると元良親王の元日の奏賀声は、まことに音吐朗々 (オントロウロウ)
と、大極殿 (ダイゴクデン) からはるか遠くまで聞こえて見事だったというから、体格も立派な、いい男ぶりであったらしい。
色ごのみというのは、現代の好色よりももっと広範囲の情趣をいう。性的世界は包含されるけれども、風流を解し、恋愛の駆け引きを娯
(タノ) しみ、恋の情緒を尊ぶ。もののあわれを知り、柔軟で鋭敏な感受性を備えていることを指し、そこに肉欲偏重の臭気はない。それが王朝の色ごのみである。
元良親王は、女房、人妻、姫君、ありとあらゆる身分の女と恋愛し、ついに宇多院の愛妃に懸想する。 『御集』
に、 「夢のごとあひ給ひて後」 、新王は御息所 (ミヤスンドコロ)
に歌を贈った。
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「ふもとさへ あつくぞありける 富士の山 嶺の思ひの もゆる時には」 |
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この京極恩息所と呼ばれた藤原褒子 (ホウシ)
は美しい人だったらしい。
父の時平は、醍醐天皇の後宮に入れるつもりで入内させたのに、天皇の父君でもう法皇になっていられた宇多院が、褒子を見るなり
「これは老法師賜はりぬ」 といって連れて帰って、自分の妃にしてしまったという。ずいぶん、宇多サンもやりたい放題をなさるかたである。
褒子の年齢は分らないが、その父親よりも年長の宇多サンは、褒子を溺愛されて、どこへ行かれるにも、あまたの寵姫
(チョウキ) をさしおいき、常に褒子をおそばから離されなかった。
そういう御息所に果敢に言い寄り、恋人にしてしまうのだから、王朝の色男も中々、よくやるではないか。
京極御息所にはもう一つ、優雅な話が伝えられている。
近江の志賀寺 (シガテラ) に朝勤 (チョウキン)
(朝観 (チョウカン) ともいわれる) 上人という高徳の老僧がいた。
あるとき、志賀寺へ参詣に来た御息所を、一目かいま見るなり、恋に落ちてしまった。年来の修行の甲斐もなく、恋に狂ってふらふらとあとを慕い、御所のお庭まで入り込んで、二夜三夜、そこにたたずんで恋い焦がれていたという。
その哀れな姿に心動かされた御息所は、老僧を召し寄せ、御簾の内から、わずかに白い手をさし出した。老僧は感激にわななき、あえかな美しい手を握りしめ、
「初春の初子 (ハツネ) の今日の 玉帚 (タマバハキ) 手に取るからに
ゆらぐ玉の緒」
と万葉の古歌を口ずさめば、御息所は、
「極楽の 玉の台 (ウテナ) の はちす葉に われを誘 (イザナ)
へ ゆらぐ玉の緒」
と返歌して老僧にやさしい心づかいをみせたという。
「老僧はどうしましたか、その後」
と熊八中年は興味しんしんで聞く。
「それは伝わっていませんが、さぞかし満足して、残る生涯を安らかに送ったのでは」
「いや、寝た子を起こされて、また一から修行をし直したかもしれませんな」
熊八はニヤニヤしていうが、ともかくドン・ファン元良親王も真剣にうち込んだほど、京極御息所は、女らしい優しさを持つ美女だったようだ。
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「田辺聖子の小倉百人一首」 著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫 ヨリ
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